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「戦艦大和の最期」をどう読むか Vol.1

2001/03/20
戦艦大和や靖国問題

 小学校の友人のモリケンにクラス会であったときに彼の息子が小石川高校にいて、 私の父が書いた「戦艦大和の最期」をテーマに授業をしているということで、 彼のご子息からその場に電話がかかってきました。吉田さん、授業に出てくれませんか? と。
  お父さん同様、手八丁口八丁の息子さんです。 以下はその授業で話した内容に若干付け加えたものです。


人の期待とは違い、僕は父からそんなに大和の話を聞き覚えているわけではないのです。
考えても見てください。父は20歳のときにあの歴史的な名著を書いたのです。
息子としてははっきりいって・・・・負担です。読みたくないです。
僕は二十歳のときにはディスコパーティでちょっと儲けたりとか、テニスの新人戦で戦っていたりしておりました。
その同じく若き日に、父は超えようも無い山を登っていたのです。
・・・・・そういえば、偉大な父を持つ多くの息子は、ぐれてしまったりしています。
父はやさしい父であり家庭人であり、そうした負担をきっと僕にかけたくは無かったのだと思います。
また「しいて語らずとも自分の生き方を見れば判る」という心持だったのだと思います。
ほら・・・・親子ってそんなにべらべらはしゃべらないじゃないですか。

父が何故あのような作品がかけたのか。
父はほとんど一晩であの作品を書いたのであり,そのほとばしる勢いが作品のエネルギーを生み出しています。
まず、父の世代は旧制高校にかよい今では考えられないような教養あふれる学生生活を、送っていたのです。
旧制高校というのはいまでいう大学の教養課程です。当時は大学進学者も少なかったですから、いわば最初からエリートとしての「ノブレスオブレージ(高貴なる義務)」を教わってきているところがあります。
さらに父は祖母の教育により少年期から毎日、毛筆で書き間違いが無いように日記をつける習慣の持ち主でした。
ようするに頭の中で書く前に文章を組み立てる訓練をしていたのです。
その習慣で訓練したのでしょう、父は目で見たもの、その場の状況を極めて正確に言葉で表現する記憶力の持ち主でした。
さらに、父は大和艦上においてその日の戦闘状況を記憶する役目を与えられておりました。
そうした準備、心構え、立場の全てがかさなって父をして「日本現代におけるホメロス」としたのだと思います。

この戦闘が行われた当時の日本の状況については、皆さんはなかなか想像が出来ないのではないかと思います。
テオクラシー(神政国家)というのですが、当時の日本は今の北朝鮮同様、天皇陛下を神であり親と仰ぐ宗教国家だったのです。
行動や、さらに心のもち方までがある種社会からの圧力を受けていて、私が思うには、多くの日本人はやや自分であっても、自分個人の心がないような気持ちになっていたことでしょう。
あの当時のことを人々に聞いても「さあ、どうだったかなぁ」と集団健忘症のような感じです。
皇国思想ということばもありました。広告思想ではありません。それが軍隊という場所にいればなおさらのことです。
ようするに日本のためならいさぎよく死ぬということが、当然の雰囲気だったのです。
もっとも死を目の前にした少年兵は「天皇陛下万歳!」ではなく、やっぱり「おかあさーん」といって死んでいったそうですが・・・

父達はある種のインテリですから、その種の国と運命を一体化せよ!というプレッシャーもさほど強いものではなかったのでしょう。
それにもう日本が戦争に負けるということは十分すぎるほどよくわかっていたようです。
大和の特攻が完全に無駄であることも。
しかしとりあえずそこへの乗船を命じられ、出撃のスタッフになる事は「名誉」であり、誇らしい事でも会ったのです。
なにしろ日本海軍に唯一のこった戦艦、それも世界海軍史上最大の戦艦ですから。
よくそうしたときに「死ぬと判っていれば逃げたらよかったじゃない」という人もいるのですが・・・・・
-父はその件について陸軍にいらっしゃった作家の古山高麗雄さんという人と討論した事もあるのですが-
内地で親兄弟、友人、恩師がいる環境で「俺死にたくないからにーげた」といえるような心境には、まったくなれなかったようです。
(ベトナム戦争忌避のような感じとはまったく違うということです)
それに陸軍と違い、海軍は「板子一枚」・・・・ようするにアドミラル(提督)から水兵まで、死ぬときはどうせ一緒、じたばたするのはやめようや、という「美学」のようなものもあったようです。
海軍の人たちは戦後長らく「海軍バー」というところで楽しく集っておられました。
大和も出撃の直前までは「サイダー製造機」があってカレーが食べられる。
ようするに死なない限り、結構に居心地がいいところであり、
それが最後は餓鬼地獄を見る陸軍と大きく違った点らしいです。

大和の特攻についてはつぎのような背景がありました。日本の海軍はその最大の切り札が大戦艦ですから、これをどの戦場でだすかは戦略の大きな分かれ目になります。
なにしろ大戦艦は数が少ないですから、どうしても出し惜しみをする気分が生じます。
(もう一杯の戦艦武蔵はすでに前年、フィリピンのシブヤン海に沈んでおりました)
大和竣工以前、ワシントン海軍軍縮条約(1922年)によって、日本はアメリカの7割の主力艦しか保有できなくなりました。
その劣勢をはね返すためには、量より質で相手をうわまわるしかありません。
主砲で相手をうわまわることができれば、数はすくなくてもじゅうぶん互角に太刀打ちできる。
そういうロジックで大和や武蔵は46インチ砲という世界最大の馬鹿でかい主砲を持ったのです。
しかし実際には主砲を斉射すると衝撃で方位盤(照準器)が故障してしまう・・・・ようするに北朝鮮のテポドンのような「コケオドシ」で相手をビビらせる(そして国民を勇気づける)という程度のものでもあったのです。
父はそのことを示すエピソードとして、大和の竣工を世界の三バカ(エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、日本の巨大戦艦大和)
にたとえる同僚の言葉を紹介しております。
大和は出し惜しみをしているうちに、出番を逸してしまったのです。・・・・・
というか第二次世界戦争の間に巨砲を持つ軍艦同士の決戦は、行われなくなり、海軍兵力の主力は、より長い射程距離をもつ航空母艦と艦上戦闘機にとって代わられていたのです。

つまり・・・・・大和は鉄砲隊の前に一人残ってる老騎馬武者、みたいなことになってしまったのです。
海軍参謀などの軍官僚は、これを温存した場合、「なんだ!大和を出せば勝てたのに!」という国民の批判(まだ大和神話は生きていた)や、
「うちはとことん犠牲をはらったのに海軍のやろう、出し惜しみしやがって」
という陸軍の批判を恐れて,
大和の片道出撃などという特攻作戦をたてたのです。
「ごめん。しょうがないんだよ、ほらいろいろあってさ。わかるだろ?潔く討死してくれよ」
・・・・・とまあ、こういう感じの作戦だったのです。

そんなことももう全部判っていたのです。
それがわかった上で、若き自分たちの死の意味を見つけたい。
そういう切実な気分が彼ら学徒兵にはあったのです。
(ちなみに生粋の海軍さんにはそうした感傷はなかったようです。なにしろ「皇国思想」が骨のずいまでしみついていますから。)
学徒兵たちは、どうせ死ぬなら、自分達の死が敗戦後の日本のためになるように。
日本が非科学的、非合理的、進歩を馬鹿にする態度のために一度滅びることを、見据えた上で、未来の日本が俺たちの死を無駄にせず、再び素晴らしい国になってほしい。
これが多くの学徒兵のいつわらざる正直な心境であったようです。

さてここに一本のビデオがあります。「散華の世代からの問い」という番組です。
私の父は昭和54年に日本銀行監事という役職のまま56歳で亡くなりました。
父の世代の人は戦争中や終戦後、衛生状態や栄養状態がわるいなかでくらしていました。
戦後は、多くの同期先輩が亡くなったので、せめて自分たちがと、ともかく無我夢中で高度成長を作り出してきたのです。
だからでしょう、けっこう早くなくなる人も多いのです。そういえば父が生前申しておりました。
「自分はあのときに死ぬべきだったのに、生き長らえた。彼らの分まで生きなければという使命感が自分たちを駆り立てた・・・」と。

「散華の世代からの問い」は、僕が会社に入った昭和55年に、当時NHKのスペシャル番組のプロデューサーであった吉田直哉さんという人が作ってくださった追悼番組です。私も遺児として出演しています。
番組の冒頭にややスモッグに煙る東京上空を旋回する視点で次のようなナレーションが入ります。

「私は今でもときおり奇妙な幻覚に捕らわれることがある。
それは戦没学徒の亡霊が、戦後三十数年を経た日本の上を今、繁栄の頂点にある日本の町をさ迷い歩いている光景である。
死者が今際のきわに残した執念は容易に消えないものだし、特に気性の激しい若者の宿願はどこまでもその望みを遂げようとする。
彼らが身を持って守ろうとしたいじらしい子供たちは、今どのように成人したのか?
彼らの言う日本の清らかさ、高さ、尊さ、美しさは、戦後の世界にどんな花をさかせたのか。
それを見届けなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。
彼らの亡霊は今何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、新聞のトップ記事に今何を見出すだろうか」

痛いです。父は、昭和55年に死ぬときに、その後の日本が彷徨いこむ迷い道を正しく予見していたのです。
それを見るのが嫌でこの人はあの世に行ってしまったのか。
そう思わせる台詞です。
僕が思うには、成功や繁栄や拡大は必ずその社会に歪を残します。
明治からひた走った戦前日本の歪が太平洋戦争であったとすれば、若き死者たちはそのマイナスのエントロピーをこの世からあの世に持ち去ってくれた。若すぎる彼らの死を悼む気持ちが、日本を再び真っ当な道にもどしたのです。
僕たちはその後五十数年、成功と繁栄と拡大の道を再び歩んできてしまったのです。
今マイナスのエントロピーをこの世から持ち去ってくれる奇特な人はおりません。
彼ら若者の亡霊は、父の世代の死と共に日本から消え去りつつあるように僕は感じます。
この国の今日を見たくはなかった、と深く悲しみながら・・・・・・・

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