A級戦犯合祀は自らやめるべきである(7月20日改) |
2006/07/20 戦艦大和や靖国問題 |
2006年7月20日の日本経済新聞のスクープにより、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことを示す第一級の歴史資料が見つかりました。本論の主旨はその約1年前に書かれたものですが、この歴史資料の発見により、ほぼ実証されたと考えています。1988年当時の宮内庁長官富田朝彦氏のメモが見つかったもので、そこには昭和天皇が靖国に参拝されない理由が以下のとおりに明確に書かれていました。
「私は、或る時に、A級戦犯が合祀され、その上、松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と。松平は平和に強い考があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」
この報道のバックグラウンドの解説資料として本論文は最適かと思います。長文ですが、検索でこられた方は是非お読みください。
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本論の主旨
私はA級戦犯の合祀(ごうし)は、わが国が自ら改めるべしと考えます。それは他国に指摘されるまでもなく、わが国の本来あるべき姿、そして自国の歴史と如何に真摯(しんし)に向き合うか、を考えればおのずと明らかになることだと考えます。他国の歴史認識を批判するためには、まず自国の歴史を正確に認識することよりはじめなければ、全く説得力がありません。A級戦犯合祀は、戦後に起こった第二の「統帥権違反」でした。そこには無責任・無自覚から来る保守主義からの逸脱、不明朗な動機とプロセスがあります。過去、政治家がその判断を避けてきたことがまことに遺憾です。私たち日本人が今直視すべき問題として、発言させていただきます。
1. 靖国神社の起源
2. 誰が靖国神社に祀られているのか?
3. A級戦犯認定への法プロセス
4. A級戦犯とは誰か?
5. なぜA級戦犯が合祀されることになったのか?
6. A級戦犯合祀をすすめた「靖国」イデオロギー
7. A級戦犯合祀がもたらした代償
8. さいごに 私の個人的体験
1. 靖国神社の起源
靖国神社は、明治2(1869)年に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃(たお)れた人たちを祀るために創建されました。「本神社は、明治天皇の思し召しに基づき、嘉永6年以降、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、永らくそのみたまを奉慰し、その御名を万代に顕彰(けんしょう)するため、明治2年6月29日に創立された神社である。」と社憲に設立目的を明記しています。当初は「東京招魂社」と呼ばれましたが、明治12年に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。
靖国神社の前身である東京招魂社の献策を行ったのは大村益次郎。大村は戊辰戦争や函館の戦いなどの全作戦を監督した近代日本陸軍のまぎれもない創設者です。靖国にある大村益次郎銅像は、東京三大銅像の一つであるとともに、わが国の西洋式銅像第1号です。
大村の出身の長州藩では、幕末の動乱に倒れた英魂を弔うための招魂祭を、すでに行っていました。益次郎とその後継者が長州と近代日本陸軍による明治建国を、東京に刻印しようと考えたことは当然の成り行きでした。今も目に見えないところで、その漆黒の政治潮流は顕微せずに、深く流れています。
その後靖国に、嘉永6(1853)年にアメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ浦賀に来航した時以降の、国内の戦乱に殉じた人たちを合わせ祀ることになりました。明治10年の西南戦争後、内戦が終わった後はおもに「外国との戦争で日本の国を守るために戦死した天皇直属の人々を祀る神社」となりました。
明治期の日本は、西洋諸国に伍(ご)するために、近代化を進め国民という概念を作り出す必要に迫られました。そのために、天皇を中心とする国民的・宗教的な求心力を作る国家的な要請があったことが靖国の背景にあると考えられます。その権威をたかめるために天皇を宗主とする国家神道をつくり、建国にまつわる出来事や人物を神として崇める風習が必要とされたのです。その意味で靖国神社は非常に近代国家的な宗教といえるでしょう。
因みに、靖国神社が発表している「靖国神社御祭神戦役・事変別柱数」によると同神社に祀られている人々は:明治維新7,751。西南戦争6,971。日清戦争13,619。台湾征討1,130。北清事変1,256。日露戦争88,429。第一次世界大戦4,850。済南事変185。満洲事変17,175。支那事変191,218。大東亜戦争2,133,760。合計2,466,344柱(平成12年10月17日現在)となっています。
2.誰が靖国神社に祀られているのか?
この起源からして、「戦時に天皇に命をささげた(戦死)かどうか」が靖国神社への合祀の大事な条件となっていることがわかります。
幕末に倒れた尊王の志士たち、吉田松陰(寅次郎)・橋本左内や坂本竜馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎は、明治国家建設の礎を築いたことを顕彰され、1887(明治20)年ごろから合祀されています。
もともとは天皇直属の部下を祀るものであったのが、戦後その範囲は、国民の期待にこたえて広がっていきます。合祀者の中には、軍の命令でその場を離れることができず亡くなった人も含まれるようになりました。
例えば、沖縄戦で戦没した「ひめゆり部隊」「白梅部隊」など7女学校部隊の女子学生や、沖縄から疎開先の鹿児島に向かう途中に撃沈され死亡した「対馬丸」の小学生や従軍看護婦、それに敗戦直後の1945(昭和20)年8月20日、進攻してきたソ連軍の動向を日本に打電し続け、自決殉職した樺太(現サハリン)真岡(まおか)の女子電話交換手らの陸軍軍属(軍隊における非軍人)も含まれます。
旧陸海軍では、軍に所属する文官と文官待遇者のほか、技師・給仕も1955年から1960年代にかけて合祀の対象となりました。(その他満州開拓団員や防空活動従事中の警防団員らも。現在女性祭神は5万7,000余柱)。
一方、天皇に刃向かった新鮮組はもちろん、維新の元勲(げんくん)・西南戦争の西郷隆盛や江藤新平、あるいは戊辰(ぼしん)戦争での徳川方(会津白虎隊)など国賊・反政府の烙印を押された人々は、合祀の対象から外されています。
明治の元勲で靖国神社に祭られていない最大の大物に「維新の三傑」の大久保利通がいます。大久保の明治建国に対する貢献は尋常ではありません。軍事的に見ても、幕末の王政復古クーデターの主要首謀者の一人であり、江藤新平らが中心となった佐賀の乱では自ら赴いて江藤らを処罰します。初代内務卿として実権を握り、徴兵令を行い、西南戦争を指揮しました。
なぜ大久保が靖国に祀られていないのか。それは西南戦争の翌年、平和になったあと東京で暗殺されたため、戦死者とはならなかったためです。戦死かどうかが、祀られる基準であったことが、このことでよくわかります。
また事故死者が祀られていない著名な例に、「八甲田山死の行軍」があります。1902年、青森第五聯隊210人が八甲田山中で雪中行軍の演習中に遭難し、199人が死亡するという史上類を見ない大惨事が起こりました。この遭難事件の死者を靖国神社に合祀する議論が事件直後から政府内に起こります。陸軍には合祀への強い意向があり、陸軍人事局長中岡黙少将を委員長とする「歩兵第五聯隊遭難ニ関スル取調委員会」は合祀の意見書を提出します。しかしこれは政府により否決されました。
この取調委員会にかかれた反対意見をいくつか紹介しますが、靖国神社のもともとの性格を表しており、興味深いです。(「八甲田山雪中行軍遭難事件と靖国神社合祀のフォークロア」丸山康明)
「合祀者の選択について、一時の感情に流されるべきではない。靖国神社は永遠に国民が尊敬を発揮させる必要があり、したがって合祀者の取捨選択は慎重にしなければならない。もし一時の感情に支配され、あるいは心情に傾いて取捨を誤ったならば、神社の尊厳を害し、現在思うように賑わっていない神社の将来をますます不振の状況に陥らせることは火を見るよりもあきらかである」
「靖国神社はもともと国難に殉じた者を祀るために設置されたのであり、平時の職務中に死亡した将校以下を合祀するために設置されたのではない。靖国神社に合祀し国家が祭事を挙行するのは、皇室および国家に対する忠勇義烈の精神を後世に伝え国民が永遠に称え後進者を奨励するためである。平時の職務中に死亡したものを合祀するとすれば枚挙に暇がなく、すでに戦死し国難に殉じた人々と玉石混合の恐れがあり、先祀の神霊は喜んで凍死者たちを迎えず、神の威徳を汚すことになる」
新田次郎がこの実話を書くときに資料を提供した「小笠原弧酒」という人は、遭難事件の死者をあらためて靖国に合祀しようと試み、署名活動を行います(1981−82年)
この署名嘆願に対する靖国神社の返答は次のようなものでした。
「拝復、明治35年1月の青森歩兵聯隊将兵の八甲田山遭難者合祀嘆願の件につきましては、去る昭和56年5月15日に御来社のお申越しのありました際にご返答申し上げました如く、本件につきましては当神社御壮健以来の趣旨・方針により御要望に添い難いことを重ねてご回答申し上げます。ご心中は重々お察し申し上げますが、本件は当時国家陸軍当局に於いて審議をつくされたものであり、事変・戦争に直接関係のない遭難死・即ち戦歿者として国家が認定せず、合祀対象外とされたものとご理解くださいますよう、先ずは右御返信申し上げます。
昭和62年3月17日靖国神社社務所
小笠原弧酒殿」
また戦死者のなかでも、「屠卒(とそつ=牛や豚などの屠刹{とさつ}を職業とする雑兵)はこの限りにあらず」として、被差別部落の人々は当初排除されています。これは、もともと招魂社という風習は長州藩のものであり、明治維新前の戦死者についての合祀をするさいに、奇兵隊における被差別部落民のへの差別を引き継がざるを得なかったという側面があるようです。
高杉晋作が下関挙兵のときの軍隊編成の心積もりを書いた「討奸檄」の一部を紹介します。(「長州藩明治維新史研究」小林茂 未来社)
「全体初癸亥(文久三年)之事、藩主攘夷之事を謀るや、生謂らく今日之国勢に当り、肉食之士人等皆事に堪へず、故に藩主に乞ひ、親兵を編せんと欲せば、務めて門閥の習弊を矯め、暫く穢多之者を除之外、士庶を不問、俸を厚くして専ら強健之者を募り、其兵を駆するや、賞罰を厳明にせば、縦へ凶剣無頼之徒と雖も、之が用をなさざるという事なし」
意外なことに、偉くても戦死者でない乃木大将や東郷元帥は靖国神社には祀られていません。彼らは軍神として、それぞれ乃木神社(乃木坂:大正十二年十一月一日鎮座祭)、東郷神社(神宮前:昭和15年5月27日(海軍記念日)鎮座祭)に祀られています。
靖国神社に於いて祀られることができなかった戦死者の重要な国家設備として、千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。靖国神社に祭られる戦没者は、基本的に遺骨を遺族に引き渡せるものに限られるのに対し(納骨可能)、この墓苑は、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために、国が設けた施設です。
現在、約34万8,000柱の御遺骨が納骨されています。海外戦没者の遺骨は昭和28年ごろから政府によって本格的収集が始まりました。収集された遺骨の大部分は氏名の判別が困難で、遺族に引き渡すことが不可能だったので、これらの遺骨を祀るために墓苑を皇居や靖国神社に近い千鳥が淵に作ったものです。したがって、一部の諸外国のように、全戦没者の象徴として一部の遺骨を祀る「無名戦士の墓」という位置づけはされていません。
ちなみに、どうやって戦死者の個人名がわかるかというと、旧日本陸軍の将校以下の兵士は、戦死傷時の身元確認のため、長さ45ミリ、幅33ミリの小判型の認識票が支給されていました。この認識票が回収されると、厚生労働省が保管する『留守名簿』との照合が行われます。留守名簿とは、旧陸軍兵士の所属部隊、編入年月日、本籍、氏名、留守家族の住所、続き柄などを記載した資料で、復員兵や不明兵士の身元確認と軍人恩給などの有資格判定をするために使われてきました。(この名簿は内外地のほとんどの部隊ごとに作成されましたが、終戦間近の混乱期は作成されなかった兵士もいるようです。)
つまり、この認識票が回収されない将校未満の戦死者は靖国神社に祀られず、千鳥が淵に祀られることになります。逆に言えば、認識票さえ回収されれば遺骨は誰のものであっても靖国に祀られる。現実的にはそういうことになります。
靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の関係は不明確であり、靖国神社は将来的に戦没者追悼の中心の座が動くことを危惧しました。昭和31年遺族会副会長逢沢寛氏と、官房副長官砂田重政氏(戦争犠牲者援護会々長)は次のような覚書を取り交しています。
1.仮称無名戦没者の墓は信仰的に靖国神社を二分化するものでなく、現在市ヶ谷納骨室に安置せる八万余柱の御遺骨及び今後海外より収納する所謂引取人の無き御遺骨収納の墓であること。
2.本墓の建設により、八百万遺族の憂慮している靖国神社の尊厳と将来の維持、及び精神的、経済的悪影響の波及しないような措置をすること。
就ては、例えば国際慣行による我国訪問の外国代表者等に対し、我国政府関係者が公式招待又は案内等をなさざること。
3.靖国神社の尊厳護持について、来る通常国会の会期中に政府をして、精神的、経済的措置をなさしむること。
4.本墓の地域は靖国神社の外苑の気持で取扱いし、将来法的措置を講ずること。
いわずもがなのことですが、靖国には太平洋戦争の最大の犠牲者というべき沖縄戦や空襲、原爆などで死んだ民間人は祀られていません。
彼らのためには全国戦没者追悼式が昭和38年以降、毎年開かれています。これは日中戦争以降の戦争による310万にもおよぶ死没者を広くー軍人軍属、準軍属、外地において非命に倒れた者、内地における戦災死没者、公務中の死亡の者あるいは平和条約による拘禁中の死亡者を包括的に全国戦没者という全体概念でとらえ、追悼しています。たとえば東京空襲は判明しているだけでも669回ありました。こういった空襲、艦砲射撃、機銃掃射等により死亡した日本人は約50万人以上と言われています。
この追悼式は一回目は昭和27年に新宿御苑で開かれ、その後昭和38年になって制度化されました。昭和52年以降、8月15日の全国戦没者追悼式へのわずかな一般戦災死没者の遺族代表の参列(昨年は160人)措置がとられるようになりました。
式は宗教的儀式を伴わない形で行われ、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官、遺族代表、国会議員などが列席いたします。
これ以外に、終戦直後、昭和22年に結成された全国戦災都市連盟の提唱のもと、昭和27年に空爆犠牲者の慰霊協会(東京都と99市、13町の113戦災都市で構成)が結成されています。兵庫県姫路市の手柄山中央公園に「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」という800坪の慰霊塔が設立され、8月15日のささやかな慰霊式には、ときおり総務大臣や総務政務官が、参列しているようです。
3.A級戦犯認定への法プロセス
第2次世界大戦の惨禍により、ニュールンベルク裁判ならびに極東国際軍事裁判(東京裁判)で確立した、A、B、C級の犯罪が戦争犯罪と認識されるに至りました。
ドイツが敗戦したあと連合国は、ポツダム宣言の第10項および、戦勝国による「ロンドン協定」などを受けて、まずニュールンベルグ国際軍事裁判所条例がつくられ、ドイツの戦争犯罪を裁くことになりました。
ニュールンベルグ裁判のアメリカ首席検事ジャクソンは,きわめて率直にこの軍事裁判の超法規的な性格をこう語っています。
「しかしながら、憲章を解釈するに当たって、国際軍事法廷としてのこの組織のユニークな緊急的性格を看過すべきではない。それは、署名国の国内法の司法的機構の一部ではない。ドイツは無条件降伏したが、講和条約は署名されてもおらず、合意されてもいない。
連合国は、敵であるドイツの政治・軍事組織が崩壊しているにもかかわらず、依然として、技術的には、ドイツと戦争状態にある。国際法廷として、当法廷は、連合国の戦争遂行努力の継続である。国際法廷として、当法廷は、各国の司法・憲法制度の精密な審理手順に拘束されない」
日本は下記の条項を旨とするポツダム宣言の受諾を決め、1945年8月14日に無条件降伏を行いました。
1.軍国主義の除去、2.日本国領土の占領、3.カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限、4.日本国軍隊の完全な武装解除、5.戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立、6.賠償の実施と平和産業の確保
日本側の受諾の条件は、「国体の護持」でしたが、それに返答したアメリカは「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」と宣言の内容を繰り返しました。国体がどうなるか曖昧なまま、日本は14日の御前会議であらためて宣言受諾を決定いたしました。
(ちなみにこれが「非無条件降伏であったという意見」は、1)カイロ宣言では国家が無条件降伏を行う主体とされたのにたいして、2)ポツダム宣言では日本軍の無条件降伏が行われたものの、国家としては無条件降伏ではない、という議論によるものです。これはつまり国家と軍隊の行為を区別し、それぞれが行う無条件降伏ごとに違いがあるという考えに基づいています。しかし、日本以外の主権国家でこの議論が通じるであろう国を、寡聞にして知りません。この意見は、戦前の日本に特有な統帥権の独立、つまり日本軍が国家の意思を離れた常在的クーデター国家であった、という特殊事情を勘案した極めてローカルな議論だと思います。)
1945年(昭和20年)9月6日には、連合国側から「連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers=SCAP)の権限に関するマッカーサー元帥への通達」がありました。その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」とされました。
1945年12月、モスクワに集まった米、英、ソ、三カ国会議で、ドイツのナチス残党同様、日本のA級戦犯を国際軍事裁判にかけて処断することを決定しました。無条件降伏を定めた1946年(昭和21年)1月19日の降伏文書をうけて、マッカーサーは「判・検事の任免権」および「減刑権」をふくむ、最高指揮権を掌握し、極東国際軍事裁判を統轄することとなりました。
当初マッカーサーは東京裁判にはほとんど興味が無く、真珠湾をだまし討ちした東条一味に復讐することと、自分のフィリピンの敗北の相手への復讐についてのみ、熱心であったとされます。例えば第14軍司令官として比島作戦を指揮した本間雅晴中将は、知英派で陸軍きっての文人将軍として知られています。本間中将は「バターン死の行進」の責任者として、裁判開始後わずか2ヶ月で処刑されています。(BC級戦犯はA級に先立って裁判が行われました)マッカーサー元帥は、本間中将の裁判の判事や検事に、彼の部下を指名して行わしめました。(後でこれはリンチ(私刑)にも等しい処刑と批判されました。)
しかし次第に東京裁判は、非常に重要な政治的意義を持っていることがわかってきました。
政体が完全に崩壊・消滅したドイツと違い、日本は無条件降伏はしたものの、天皇を含む統治機構は残っており、日本を統治するためには、天皇制度と統治機構の存続とその活用が、必要不可欠だということがわかってきました。
しかし国際政治的、国際感情には戦争に対する責任を明確にする必要が生じます。マッカーサーにとって、身をもって感じ、守ろうと考えた天皇制維持を戦勝国に納得させることが、彼にとり死活的に重要となりました。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)が召集される前に、マッカーサーのスタッフと日本の官僚は日米の共同作業として天皇を戦争犯罪の巻き添えにしないよう、戦犯リストに載った人に天皇を守る為に、どんなに些細であっても戦争責任を天皇に負わせることのないよう、協力を要請しました。そして戦犯たちは、とりわけ裁判の当初には喜んでその使命に従ったのです。
ちなみに、これを象徴的な贖罪と意味づけるため、東京裁判のA級戦犯28被告は昭和21年4月29日、すなわち昭和天皇の誕生日を期して起訴されました。しかも東条以下7戦犯が絞首刑に処せられたのは、昭和23年12月23日、すなわち皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日です。この手法は、かなりアメリカ的(鷹揚なようで執念深い)です。この事実はA級戦犯後、天皇家の参拝が行われなかった大きな理由のひとつだと思います。
これらのプロセスが法的・道義的に正しいものだったのか、の議論はわかれています。裁判の正統性や判断の法的根拠の少なさへの批判は、とくにわが国でよく聞かれます。たとえば戦勝国が裁判官を務めたこと。裁判官の方針はあらかじめ決められ、弁護は形式的だったこと。勝者の戦争犯罪が取り上げられないこと。アメリカによる広島・長崎への原爆投下こそ「人道に対する罪」だ、という批判があります。ウエッブ裁判長は「この裁判は日本を裁く裁判で、連合国軍の行為とは無関係である。」と明言いたしました。
偽証罪の適応がなかったこと。罪刑法定主義・法の不遡及が保証されなかったことなど。裁判を構成する国内法的な配慮は、この裁判にはありませんでした。しかし、日本自体が(とりわけ天皇制度や国体を護持したままで)自ら戦犯を裁くということがありえたのだろうか。
ドイツと日本は、世界史のなかでもきわめてまれな無条件降伏を受諾しました。そして第二次世界大戦という体験は、空前絶後であり、再現性もほぼありえません。
「無条件降伏」をした国は、戦勝国によりいかに不公正な処分を受けたとしても、それを受け入れなければなりません。そのときに四の五のいって、それを覆す権利も度胸も能力も(ようするにたとえばゲリラ戦をもう一度開始するなど)なにもかも、もうこの二国には残っていませんでした。それが徹底的な戦敗国の宿命です。国を無条件降伏というこの上ない屈辱に導いた国家指導者の無能ぶりは、裁かれるまでもなく、万死に値します。
国際法は万国公法としての形成以来、そのときの最大勢力の列強(主として海軍国)によって作られるものでした。この100年の歴史でいえば、その列強は2つの大戦時を除いて具体的にはほぼ英米を中心とする数国(フランス、イタリア、日本、ロシア、中国、第一次と第二次とで組み合わせが違う)を意味します。戦後は米ソ二国が冷戦状態にあり、非常に複雑な状況が生じました。ソビエト連邦の崩壊後、世界の軍事均衡はアメリカに大きく傾き、国連主義とアメリカ主権主義との国際法の解釈をめぐる争いがみられています。
法秩序や法執行能力の確立した近代国家における国内法と違い、国際法は法的効力をともなう慣習の積み重ねです。よく「事後法だった」という批判がありますが、この批判が正当なものかどうか議論は分かれており、私は否定的です。たとえば、国連安全保障理事会によって設置される国際戦犯法廷によって、カンボジアのポルポト政権に対する戦犯法廷が開かれようとしていますが、これはジェノサイド(大虐殺)事件からほぼ30年たったあとのことです。「国際戦犯が無時効」であるというのは、第二次世界大戦後、南米他に逃亡したナチ戦犯の追求時以降の慣習です。
国際法について若干の言及を行っておきます。
国際法がスタートした、近代初頭から第一次世界大戦までは「侵略」という概念はありませんでした。近代以前、文明の低い地域は無主地とみなされ、欧米の帝国主義国がこれを戦争により先占して植民地にするのは自由。いったん植民地化したら住民をジェノサイド(大量虐殺)するのも、国際法上合法でした。
第一次世界大戦の惨禍があまりにも大きかったので、1929年、それまで侵略を重ねていた列強諸国は、「戦争ノ抛棄(ほうき)ニ関スル条約(パリ不戦条約、ブリアン=ケロッグ条約)」を定め、それ以降の侵略を停止します。(「これでも国家と呼べるのか」小室直樹クレスト社)この条約は、第一次世界大戦の惨禍後に国際間の紛争をなくすために定められたものです。というのもそれまでの侵略戦争は、戦後処理として伝統的に領土割譲と賠償金により解決を図ってきました。しかし、この解決法のもとでさらに悲惨な第二次世界大戦は起こったのです。
パリ不戦条約に調印はしたものの、遅れて列強に参加し属国や植民地に乏しい、日本、ドイツ、イタリアにとっては、歴史的な不公正と感じられるものでした。日本やドイツの侵略行為は、国際法を実質的に支配した当時のアメリカ、イギリス、フランスなどの戦勝国により同条約(侵略戦争の禁止)への違反行為とされました。
ケロッグ長官は自衛戦争を行う権利を留保し、侵略戦争と自衛戦争の区別がなされるようになりました。戦争終結前から、侵略戦争の禁止は欧米、とくにアングロサクソン列強では国際確信=「法的効力をともなう国際慣習」とみなされたのですが、確信犯のドイツとは違い、日本軍部はそのことの意味を理解していなかったか、無視しました。「満州事変」と「北支事変」がそれにあたります。その後の戦争の拡大は、資源エネルギー確保の困難さとあいまって、もはや取り返しがつかない自衛戦争の側面がある可能性が高いと思われますが、この2事変に限っては、侵略戦争という内外の批判に抗弁することは難しいと思われます。
次に、罪刑法定主義による東京裁判批判も私には疑問です。というのは罪刑法定主義は特に大陸法を採用した近代国家において、個人の人権が国家に蹂躙されないために制定された法精神であり、慣習法の排除を含みます。「人類未曾有の惨禍が起こった第二次世界大戦直後の国際慣習法」とは、議論の土台がまったく違います。人類は残念なことにそのような事態を想定しておりませんでした。
その言論は、敗戦国日本が、「私はうら悲しい一個人で、列強の横暴により人権を無視された」という被害者意識からの意見主張のように私には聞こえます。もし「東京裁判を認めない」ことに対する国際的な確信を得たいならば、それを仲間内で発言せず、世界に届く発言とし、国際司法裁判所などで東京裁判の戦犯の名誉回復を行うべしです。でなければ国際的には「愚痴」でしかありません。
たとえば長い歴史のあとに名誉回復と賠償を勝ち得た人々に、第二次世界大戦中に捕虜収容所に強制連行された日系アメリカ人の例があります。
イタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人系人種に対しては強制収用が行われなかったため、黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策の汚点として戦後、特に公民権運動が活発になった1960年代以降、アメリカでは大きな問題として取り上げられるようになりました。
終戦後40年以上経った1988年に、ロナルド・レーガン大統領(当時)は「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、1人当たり20,000ドルの損害賠償を行った。特に第442連隊戦闘団に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と言及し讃えました。これが法的な名誉回復であり、謝罪の意味です。
ドイツと日本は、今後恐らく二度と生じない未曾有の世界大戦を起こし、無条件降伏を受諾したわけで、この裁判は歴史的に特異なものにならずをえず、後世の評価を待つしかありません。次の同様な法廷の開催は第三次世界大戦が起きたときになるでしょう。そのときには今回の教訓を生かし、もうちょっとまともな裁判になるのかもしれません。しかしそもそもこの法廷は世界的な大戦の再現を防ぐために行われたものでした。
次にA級戦犯は外国ではなく日本が独自に裁くべきものだ、という意見もよくきかれます。これも天皇陛下が退位せずにこれまでの統治機構を温存したままで行うことは無理だったと考えます。(もし日本が天皇制を廃止し革命政権が樹立していれば、人民裁判のような形で、現実味を帯びた可能性はありえます。)
実際に戦後すぐの東久邇内閣は、戦犯の自主裁判を検討いたしました。ひとつには間接統治ながら裁判能力をもつ政権が残っていること。(ドイツの場合完全に政体が消滅し占領軍による軍政でしたのではるかに難しかったと思います)また、日本側でまず処罰しておけば、そのうえで裁判が実施されても苛酷な量刑は免れるのでは、と考えられたからです。
しかしこの閣議決定に対して大反対したのは昭和天皇です。(以下児島襄の「日本占領」より。)
「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽くしたる人々なるに、之を天皇の名に於いて処断するは不忍ところなる故、再考の余地は無きや」
木戸幸一侯爵も反対でした。
「どうしてあんな考えが出たのか、僕にはフにおちなかったな。天皇の名で戦争をして、こんどは天皇の名で指導者を裁くというのは、当時の機構では不可能だ。それに、やるとなれば、どうせなんだかんだと一種の国民裁判になる。共産主義者もでてくるだろうし、そんなお互いに血で血を洗うような裁判を天皇の名でやるというのは、賛成できないね」
結局重光外相がこの閣議決定を、GHQのサザランド中将にもうしいれましたが、簡単に言うと、「A級(政治犯)、B級(軍司令官などの責任者)は君たちには無理だろう。C級(俘虜虐待など)についても、大いに疑問である」といわれました。
その後東久邇内閣は「真珠湾を忘れてほしい」失言を行うなど、時代の変化にまったくついていけないことがあきらかとなり、総辞職しました。
次に幣原内閣において、進歩党提出の「戦争責任に対する決議案」(ようするに議員たるものは静かに過去の行動を反省し深く自粛自戒すべきだ)を可決し、わずかに蝋山政道ら十人の代議士の辞任を行いました。
日本人自らの戦犯追及がありえるかを見ていたホイットニー准将はこれに呆れ、「いまや、最高司令官の直接命令がなければ、日本国民は諸指令が求めるいかなる屋内清掃の措置をとることもなさそうである」と「追放令」で述べて、日本人による戦犯追及の話は(もとよりなかったのでしょうが)消滅いたしました。
4.A級戦犯とは誰か?
A級、B級、C級の戦争犯罪は、次のようなものです。
1)A級(平和に対する罪)
宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、若は国際法、条約、協定又は誓約に違反せる戦争の計画、準備、開始、又は遂行、若は右諸行為の何れかを達成する為めの共通の計画又は共同謀議への参加。
2)B級(通例の戦争犯罪)
戦争の法規又は慣例の違反。
3)C級(人道に対する罪)
戦前又は戦時中為されたる殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其の他の非人道的行為、若は犯行地の国内法違反たると否とを問はず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関連して為されたる政治的又は人種的理由に基く迫害行為。
A級戦犯は実は、GHQが作成したA級戦犯容疑者というリストの中から選ばれました。戦犯容疑者は主として日本が軍国主義化していく昭和初頭の実力者、軍人、政治家、外交家、右翼思想家、経済人から選ばれました。約110人程度が候補にあがったようです。戦犯容疑者には、フィリピンの軍政に関わった軍人など、明らかにダクラス・マッカーサーが私怨により人選したと思われる人たちも含まれています。中国やイギリスの意見も勿論反映されています。
A級戦犯容疑者のなかで戦後も権力を保持した有名人の例として児玉誉志夫、笹川良一、正力松太郎、らがいます。児玉誉志夫は、終戦当時は白面の一青年。児玉機関として大陸で活躍し、戦時利得30億円の資産をあげましたが、そのことは一般の日本国民は知りませんでした。つまり連合軍は、戦犯追及について相当詳細な調査をしたことが伺えます。
A級戦犯で終身禁固に処せられたけれども、政治復権した人物の例に賀屋興宣がいます。彼は、昭和33年に自由民主党から衆議院議員に立候補、当選します。昭和38年には池田内閣で法相になりました。同じく戦争時の外務大臣であり禁固7年の刑を受けた重光葵も、その後政界に復帰し、改進党総裁になりました。
重光葵は巣鴨プリズンで書いた「重光葵日記」の著者としても有名です。彼は同僚のA級戦犯らの身近な生活態度を、次のように遠慮なく辛辣に描いています。
「日本人の非社会性は、巣鴨(プリズン)では遺憾なく陳列されている。この点では、日本人として考えさせられることが多い。水やパンの事だけではない。何をしても人を押しのけて我勝ちで、風呂に入るのもそうだ。共同に使う清い上がり湯に自分の手拭を突っ込む位は平気で、共同風呂の中で鬚をそったり、石鹸のついた頭を洗ったりして、監視兵に叱られる。無作法に我勝ちに他を押しのけて行く遣り方は、軍人ほどひどい。軍隊生活では斯様に教えてあるのかも知れぬ。廊下でもどこでも、タバコの吸殻を捨てる。ツバキは到る処に吐く。遊歩の時に半裸体になって妙な服装をするのはまだしも、庭の一隅に代り代り行って直ぐ小便をやる。監視兵の顔は、軽蔑の表情にみたされる。こちらは平気である。別に心から無作法と云う訳ではない。結局、日常生活、習慣の上に社会性がないと云う訳である。7、80になって最早や如何することも出来ぬ。然し、更に若いものも大同小異である」
これらの戦犯容疑者の中で、最終的に東京裁判の中でA級戦犯に指定された人々は以下の28名です。
荒木貞夫、板垣征四郎、梅津美治郎、大川周明、大島浩、岡敬純、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東条英機、土肥原賢二、永野修身、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章
このうち大川周明は精神異常が認められ訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死しているため、結局A級戦犯として判決をうけた者は25名となっています。これらの中で、靖国神社が昭和時代の受難者として合祀しているのは「昭和受難者」と呼ばれる以下の14名です。
1)死刑判決により絞首刑
東條英機 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 松井石根 武藤章 広田弘毅
2)終身刑により服役中に獄中で死亡
梅津美治郎 小磯国昭 平沼騏一郎 白鳥敏夫
3)禁固20年により服役中に獄中で死亡
東郷茂徳
4)その他、判決前に病のため病院にて死亡
永野修身 松岡洋右
5.なぜA級戦犯が「昭和受難者」として合祀されることになったのか?
当初の靖国神社の起源を考えると、戦死者ではないA級戦犯が合祀されたことは、奇異なことに感じられます。
この合祀に至る経緯には、まず終戦後に起こった「戦犯に鞭を打つな」という強い国内世論がありました。この名誉回復運動でもっとも熱心だった政治家に、当時社会党の堤ツルヨ衆議院議員がいます。堤代議士は『戦犯の遺族は国家の補償も受けられないでいる。しかも、しかも、その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない!」と熱弁をふるいました。昭和27年4月28日に発効した対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)第11条によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に対して国民の強い同情が集まりました。戦争未亡人や遺族が参加し、早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こります。この国民運動には、最終的には約4000万人の署名が集まります。昭和28年8月、遺族援護法が改正され、旧敵国の軍事裁判で有罪とされた人は、日本の国内法では罪人と見なさない。という判断基準が明確に示されました。そして遺族に対し年金と弔慰金が支給される事となりました。自由党・改進党・右派、左派社会党。与野党を挙げた次のような全会一致の可決でした。
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衆議院本会議(昭和28年8月3日)
〈決議文〉
8月15日9度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに15箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年8月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初めに大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フィリピン共和国はキリノ大統領の英断によって、去る22日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る8月8日には濠州マヌス島より165名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。かくて戦犯問題解決の途上に横たわっていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機を逸することなく、この際友好適切な処置が講じられなければ受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国際親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。よって政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。
右決議する。
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この政治的事実は、A級戦犯者が国民から許され、その後も政財界の大物として威力をふるったことを説明します。彼らは渾身の力と影響力を駆使して、自らもほぼその立場にあったA級戦犯者の復権(昭和受難者として)に尽力しました。
これ以降、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられはじめました。「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになっていきます。そこにはA級とB・C級の区別はなく、また、国内法の犯罪者とはみなさず、恩給権の消滅や選挙権・被選挙権の剥奪もありません。刑死者は「法務死」と呼称されるようになりました。
昭和31年4月19日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示をいたしました。祭神の選考は厚生省・都道府県が行ない、祭神の合祀は靖国神社が行なうという官民一体の共同作業となりました、祭神選考は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」に原則的に依拠していることとなります。そして、先の大戦が総力戦であったことで法の適用対象が拡大し、それによって祭神の範囲も拡大。例えば、徴用された船舶の乗組員・警防団員・国民義勇隊員などが含まれるようになります。
こうして「戦犯者」も「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されたことで、靖国神社の祭神選考の対象となり、昭和34年3月10日付「日本国との平和条約第11条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされました。
靖国への合祀までの事務的な流れをみると、(1)厚生省(引揚援護局)が、保管されている戦没者カードと靖国神社による「合祀基準」とを照合・選別して所定の「祭神名票」に書きこみを行い、(2)それを靖国神社へ送付する。(3)神社側は「霊璽簿」にそれを写し、さらに「索引簿」を作成した上で遺族に通知する。(4)年2回の例大祭の前夜に合祀の儀式を行うとなっています。
これらの経緯により靖国神社は、1959(昭和34)年4月に最初の「戦犯」の合祀を行ないました。そして次第にそれを拡大し、1978(昭和53)年10月には、密かにその理由は、「53年の援護法改正で、いわゆる戦犯刑死者と遺族は(遺族年金などで)一般戦没者と同様の処遇を受けられるようになりました。戦犯刑死の方々は法的に復権され、靖国神社は当然合祀する責務を負った」(靖国神社機関紙)ということとなりました。一方これに対して厚生労働省は、「国は遺族援護のために戦犯刑死者を公務死と認定したのであり、靖国のいう『復権』とは関係ない。合祀は神社が決めることだ」と反論しています。
昭和41年2月8日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によってA級戦犯に祭神名票が送付され、昭和46年の崇敬者総代会で了承され、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀されています。このことが一般に知られたのは、翌54年4月19日の新聞報道によってです。
「A級戦犯」として、東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将、土井原(どいはら)賢二陸軍大将、松井石根(いわね)陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将、武藤章陸軍中将、広田弘毅〈こうき〉元首相ら7人と、獄中で死亡した5人及び平沼騏一郎元首相ら未決で病死した2人の計14人が合祀されました。
6.A級戦犯合祀をすすめた「靖国」イデオロギー
こうして国と靖国神社の共謀により、着実に戦犯の合祀が進んできたのですが、歴史学者の秦郁彦は、これには「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張しています。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局でしたが、局長のみがキャリアで入れ替わり、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られている部署でした。中心となったのは、戦後20年間にわたり課長、局次長を歴任した美山要蔵元陸軍大佐、板垣徹元中佐、大野克一元中佐らで、部下には元将校、下士官、戦争未亡人が集まり、省内でも別格の職場でした。美山元大佐は東条英機首相兼陸相の直系といわれ、かつて靖国を所管した陸軍省の副官でした。つまり、東京裁判を否定する旧陸軍出身者のイデオローグの一人でした。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込みました。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」です。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取ってきました。本来靖国神社のなりたちからいって、合祀の基準をかえるためには、天皇の了解を取り付けなければならなかったのです。しかし戦後、その了解は限りなくあいまいになります。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けました。しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家や宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3-10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。
青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。
この松平永芳は幕末の福井藩主、松平春獄の孫にあたる軍人でした。彼の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。平泉本人は、この奥義を人に伝えるときには、極めて慎重であり、信頼関係のある人間に一対一でしか伝えなかったとされていますが、それが奥義というものの本質であり、然るべく影響力を生じました。人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐、昭和天皇が終戦の「聖断」をくだしたときに、クーデターないし叛乱によって徹底抗戦を貫こうとした陸軍中堅将校団の多くは、平泉史観の直系でした。
このクーデター(宮城事件)についてのいくつかの証言をあげておきます。
「(宮城事件の参加者は)天皇裕人はああ仰せられても(無条件降伏の受諾)、私どもではそれでは天皇制は滅ぶと考えた。それで、一時天皇裕人の意図に反しても、皇祖皇宗以来うちたてられた国体の本義を守ることが、大きな意味では本当の忠節と考えた。」(終戦史録 五ー一二六 大井篤海軍大佐)
「クーデターによって、聖慮の変更を促するとは、いわゆる君側の奸が聖明をおおっているから、それをとり除かんとする考え方であり、その考え方のそこには、H教授の日本歴史観が流れていたことは否定できない。八・一五事件に関係した畑中少佐は、H教授の所説を盲信した一人である。その彼がH教授のお教えだと前置きし聖断が下っても、それが君側の奸によってなされた場合には、たとえその聖断に逆うとも君側の奸をとり除くことは立派な忠義であるとて、阿南さんの説得につとめた場面を、私は今でもなお記憶している。H教授にたいする尊敬は、中、少佐級だけではなかった。阿南さん自身もまた、教授に深い尊敬と大きな好意とをよせていた。」(終戦史録 五ー九七ー九八)
「(天皇と木戸の無条件降伏受諾の意思を伝えられた八月十三日最高戦争指導者会議にて)そのときとくに村瀬法制局長官は出席を求められ、主としてサブゼクト・ツーと政体の二点につき説明を求められた。長官は詳しく弁明し、差支えなきむねを述べたが、阿南陸相より、或る博士はこれでは国体危うしといっているがと反問あり、これに対しさらに釈明し、一同はそうですかと憂色をたたえ、うなずくばかりであった。」(終戦史録 五ー二七)
平泉は昭和23年に公職追放の対象となった後は、泉寺白山神社の宮司となり、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し昭和59年に没するまで右派の国史学者・イデオローグとして影響力を持ち続けました。断っておきますが、これほどの影響力を持ちえたということは、彼の思想は別として、知性、信念、人格、清新さ、教養など格別な人物だったということです。彼は皇道派、統制派などとかく分裂しがちな日本の右翼思想のバランスをとる思想的なシンボルであり、また戦時中は従軍司祭としての役割を果たしました。同門の人々の多くは戦後、保安隊、自衛隊、警察、、国史家、神道などに従事し、思想的な共同体を保ってきました。
しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。
この皇国思想にとって天敵となったのは、東京帝大名誉教授・貴族院議員である美濃部達吉らが唱えた「天皇機関説」です。天皇機関説は「統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使する」「国勢に対する批判の自由や行政権・司法権も法律にもとづく法治主義によっておこなうべし」というリベラルな、立憲君主制度の基礎になる考え方です。昭和10年2月の貴族院本会議において美濃部は、「緩慢なる謀反であり、明らかなる反逆になる」として「学匪」と非難されます。
この天皇機関説について、天皇陛下は一連の排撃運動をやりすぎと強く憂慮されていました。侍従武官長であった本庄繁陸軍大将の「本庄日記・至秘鈔」によれば、「軍部にて機関説を排撃しつつ、しかもかくの如き自分の意志に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきや」と排斥運動を痛烈に批判されています。
ここでもっとも巧妙に権力を把握したのは東条ら「統制派」と呼ばれ、「皇道派」と対立した陸軍首脳部の大勢です。統制派は、結局、皇道派の過激なテロリズムとクーデターの恐怖を利用しながら、一方天皇機関説も不敬として否定し、その両方の否定の中空に、自らの統制権を浸潤させる戦略に成功しました。この昔の民話でいうと泣いた赤鬼(皇道派)と、青鬼(統制派)の結託を成立させることが、平泉の役割となりました。
平泉の信じた皇国思想の原型は、江戸中期の朱子学者山崎闇斎の興した、日本神道と朱子学を結びつけた「崎門学派」にあります。この皇国思想は、明治天皇を擁(よう)して維新回天(いしんかいてん=明治革命)を成し遂げた長州の過激な攘夷イデオロギーを作り出しました。それは明治革命を起こした原動力となった思想です。日本の歴史の正統性として、天皇制が途切れることなく継続していること、外国に占領されていないこと、の二点を発見し、「中つ国(正しい国)は(中国ではなく)日本である」と主張し、尊皇攘夷の強烈な気風をつくり、日本を革命に導きました。しかし明治以降の近代化への成功のなかでその思想は、自らを変質させ清新さを失いなっていきます。日中戦争と日露戦争で、膨張しながら旧陸軍組織の皇道派へ、そして姿を変えながら今の靖国イデオロギーへと、 続いたように思います。
注目すべきことは、このイデオロギーそのものが、思想的な優越をめぐって中国との対立を作り出し、敗戦と東京裁判を否定する深層心理となっていることです。
1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行きます。その事情を彼の口から語ってもらいましょう。
「就任した早々であるが、前宮司から預ったこの課題は解決しなければならないということで、思い切って合祀申し上げたわけであります。その根拠は明白です。すでに講和条約が発効した翌二十八年の議会で、援護法が一部改正され、いわゆる戦犯者も全部一般戦没者と全く同じようにお取扱いいたしますから、すぐ手続しなさい、ということを厚生省が遺族のところへ通知しているんです。いわゆる戦犯、役所では「法務死亡者」といいますが、その遺族達は終戦後、一切の糧道を絶たれていたんです。財産も凍結されていたんです。家を売ってなんとかしようとしても家の売りようがなかった。実は私の家内の父親(醍醐中将)が戦犯で銃殺になって死んでおります。家内の弟がまだ学生でしたから、私が実家の母親の面倒も見ていたのです。それで、役所からくる書類などにも目を通し、こと戦犯に関しては普通の方よりもよく知っていたわけです。そこで私は、いつまでも「戦犯」とか「法務死亡」なんていうことを言うべきでないから、さっき申上げた「幕末殉難者」とか「維新殉難者」という従来から当社の記録に使っていた言葉にあわせて、「昭和殉難者」ということにし、靖国神社の記録では戦犯とか法務死亡という言葉を一切使わないで、昭和殉難者とすべしという通達をだしたのです。」(松平永芳宮司の語るA級戦犯合祀と中曽根参拝)
それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき「相当の憂慮」を表明しました。特におかしいと思われたのは病気でなくなった、永野修身、松岡洋右らの合祀です。しかし松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまいました。徳川らの側近たちの不満の表明は天皇の意を汲んでなされたことは、間違いありません。「昭和天皇独白録」は戦時指導者に関する辛口評で読者を驚かせましたが、なかでも松岡については「恐らくはヒトラーにでも買収されたのではないか」とまで酷評を加えています。そもそも松岡は戦死ではなく裁判中に病死した人間ですが、これまで平時の病死者・暗殺者・事故死者が合祀されることはありませんでした。恣意もここにきわまれりということだと思います。
松平に対する天皇側近による批評を次に加えておきます。
●『入江相政日記』によると、松平宮司は、宮内廳に、徳仁親王[浩宮]が「御成年におなりになつたのだから靖國神社に御參拜になるべきだ」と言つて來たり、徳仁親王[浩宮]のオックスフォード留學に反對するといふ「馬鹿なこと」を言つて來たりしたといふ。また、松平永芳宮司は、新發現の『高松宮(宣仁親王)日記』を如何にすべきかといふ喜久子妃の相談に對しては、之を燒却すべきとの意見を述べてをり(高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』中央公論社、一九九八年十一月、四八頁)、歴史に對する認識に於ても著しく缺けてゐる人物であつたことが窺はれる(『入江相政日記』昭和五十五年五月三十日、昭和五十八年三月十四日)。
●昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる(「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(『朝日新聞』一九九五年八月十九日)
7.A級戦犯合祀がもたらした代償
合祀にかんする「ご内意」を伝えられても、松平はA級合祀を強行します。平泉史観の面目躍如です。しかしこの強行は高価な代償を神社にもたらしました。強い違和感、不快感をもたれた昭和天皇はその後、靖国神社にいかないことを決めました。
1975年11月を最後に中断、今日まで30年間、天皇による参拝は再開されませんでした。1986年の8月15日に昭和天皇はその思いを「このとしのこの日にもまた靖国のみやしろのことうれひはふかし」とお詠みになりました。A級戦犯が合祀されるかぎり、天皇陛下が靖国神社をたずねないという不幸な伝統は、今も、これからも永遠に続くことでしょう。
参考までに、皇室の伝統行事の継承に非常に熱心とされる今上天皇は平成9年、「よくないことばかりが起こる」といって、岩清水八幡宮にお参りしています。八幡神社の総本山のひとつである同神宮は京都御所の鬼門にあります。伊勢の神宮に次ぐ国家第二の宗廟として、天皇・上皇の行幸・御事は円融天皇(第64代)の御参拝以来、現在までに実に250余度にも及んでいます。
自由民主党は靖国神社の国営化を内容とする「靖国神社法案」を国会に69年から4年連続で提出しましたが、4回にわたる審議未了を経て74年に廃案となりました。これを機に靖国勢力は方向を転換し、「首相・閣僚らの公式参拝」による同神社の公的復権を当面の目標に変えました。これが致命的に重要な意義をもつことになりました。なぜなら、A級戦犯合祀という自らの傲慢な過ちにより、天皇家による参拝停止という創建の正統性を完全に失ってしまったからです。この事態にはなはだ困惑した靖国神社は、首相による公式参拝によりその過ちを糊塗するため、日本遺族会などを通じて活発な政治運動を進めるようになりました。
梅原猛国際日本文化研究センタ−顧問は、次のように靖国のイデオロギーを鋭く批判しています。
「靖国神社は今でも戦争について何の反省もしていないところを見ると、その霊性は昔の超国家主義を棄ててはいないのだろう。」「してみると、昭和53年、ここに東条首相などの霊が合祀された時、靖国の霊たちはその霊を喜んで迎え、東条首相の霊を首霊にしたに違いない。おそらく靖国神社には今でも東条首相の「鬼畜米英一億玉砕」という甲高い絶叫が響いているのであろう。こういう神社に参って、小泉首相が「もう二度と戦争は起こしません」といえば、東条首相らの霊は「何をいってる、この臆病者めが」と一喝するに違いない。」
これは梅原氏の妄想でしょうか。それを皆さんに考えていただくために、2001年8月に靖国神社社務所が発行したパンフレットの一文をご紹介させていただきます。
「大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに、戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の形ばかりの裁判によって一方的に「戦争犯罪人」というぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた1068人の方々・・・・靖国神社ではこれらの人々を「昭和受難者」とお呼びしていますが、神さまとしてお祀りされています」
次に紹介するのはA級戦犯合祀を強行した松平宮司の東京裁判観です。
「私は(宮司を)お受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。それに対して石田先生は、これは国際法その他から考えて祀ってしかるべきものだと思うと明言されました」(靖国神社宮司松平永芳新人物往来社)
近代的な立憲君主を目指された昭和天皇は、超国家主義を主張する人々を嫌悪されていました。昭和天皇は、自ら危機に至る過程に関わり、自分の意志が曲げられて、国が間違った方向に行ってしまったこと、また何者がそれに関わったかを、はっきりと認識していました。天皇は、昭和の戦争の時代に、首尾一貫平和を希求していました。
藤田尚徳の「侍従長の回想」には昭和天皇が戦後すぐに藤田に明かした心境がつぎのようにつづられています。
「申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽くした。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。ところで戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たぐらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問には一応の筋は立っているようにみえる。如何にも尤もに見える。しかし、そうは出来なかった・・(以下略)」
もとより天皇がこのように語ったことが真実かどうか、天皇が本当にそのときにそう思っていたのかどうか、知るよしもないですが、侍従長の回顧録にこう出ている限り、天皇の戦争に対する政治的、法律的責任、そして歴史的責任はこの発言に集約されています。
「天皇の平和希求の意向をことごとくないがしろにして戦争の旗を振り、国を危うきに至らしめた者たちと、その旗のもと軍の命令に従って死地に赴いた英霊とが、同じ場所で同じように顕彰されていいものであろうか。」
このA級戦犯合祀への私の最大の疑義は、昭和天皇はこの合祀を受け入れ難く、そのために打てる手は打っていたはずなのに残念、と考えうる点につきます。
公式参拝、すなわち首相が天皇の代わりに行くという政治行為を、政治家は自ずからどう考えているのか。ちなみに、かつて戦犯の疑いで巣鴨プリズンに拘留された、長州閥の出身である岸信介元首相が率いた旧岸派(その後福田派→安部派→森派)に属する人々は、前森首相、現小泉首相、石原慎太郎東京都知事、安部自民党幹事長代理など派閥ごと、戦争責任を曖昧にする綿々とした文化を持っている、という興味深い指摘があります。
8.最後に
最後に少しだけ私の個人的体験を話します。この体験のため私は戦犯問題への違和感を持ち続けてきました。
1996年のことです。私は当時勤めていた会社の社長の依頼で、旧陸軍関係者(神社関係者を含む)を前に講演をいたしました。
その年、ちょうど「動詞型生活者の誕生」という原稿を書き上げたばかりだったのです。
その会は旧陸軍関係者ばかり数十人が集まっており、私のみるところ全員が70歳以上でした。
私の父は「学徒兵」で戦艦大和にのっておりました学徒兵でしたので、そのエピソードを交え最初は親近感を感じながらの話をしておりました。
しかし途中からいきなり様子が変わったのです。私はこう話しました。
「日本は今3回目の敗戦を迎えています。最初は黒船で来たペリー提督。日本は不平等条約をむすばされ、その改訂にものすごく苦労いたしました。次の敗戦はもちろん第二次世界大戦。マッカーサー将軍が厚木に降りたってGHQによる日本統治、そして国体の改革が進められました。今は目に見えませんけれども、私は第三の敗戦だと思っております。インターネットの普及や直接金融の進展、そして情報開示という課題に、形はついていっても実質がついていかない。その課題がこれから経済敗戦というかいたちであきらかになり、私たちはもう一度人心を入れ替えて初心から出直さなければならない。ということになるのだと思います・・・・・・」
ものすごく冷たい雰囲気のまま私は講壇を降りました。
さっと手が上がります。
「質問。あなたは先ほど敗戦と言ったが、日本は今まで一度も外国に負けたことなんかないんですよ。なにを言っているんですか。」80歳近い人の感情的な発言です。
私はあぜん!とし、そしてややムキになって反論をいたしました。
「連合軍総司令部民政局局長だったコートニー・ホイットニー中将という方がいらっしゃいます。連合軍当局が作った憲法素案を日本の閣僚に手渡したときに、彼は「マッカーサー将軍はこれ以外のものを容認しないだろう」と述べて、日本側に15分の検討の時間をあたえ、隣のベランダに退いたそうです。ちょうどそのとき、家屋すれすれに一機の爆撃機が衝撃音を残して家を揺さぶって飛びさりました。検討時間が過ぎて彼はその部屋に入ってきてこういったそうです。
「アトミック・サンシャイン(原子力的な日光)のなかでもう一度考えてみますか?・・・・・」
その直後に日本代表はあっさりとその素案を受け入れました。これがいったい敗戦でなければ、敗戦というのは一体なんなのですか??」
その方はまったく反論されず、氷のような沈黙が支配しました。
その後の歓談である人が寄ってきました。
「吉田さん、あなたのいったことは正しい。しかし彼はそれを受け入れない一生を過ごしてきたのです。私と彼と、あなたには同じに見えるが違うんです。私は70台前半。彼は70代後半。当時の大尉とか少佐です。彼らの方が数年年上です。私たちの世代が特攻に選ばれて出撃する少年兵で、そのときに彼は特攻兵を選ぶ教官側に立場にいたのです。自分が命じて部下が死ぬという状況の罪悪感を、彼は選ばない生き方をした。生きながらえるためにはそうするしかなかったのかもしれません。だから彼には敗戦自体が受け付けられないものになっているのです。だから・・・・彼にああいう言い方をしてはいけないんですよ。彼の先は・・・・まあ私の老い先もそうですけれども、そんなに長くないんですから、そおっとしておいてあげてくださいよ」
はげしい怒りと申し訳なさの入り交じった困惑を感じながら、私はその場を去りました。そうか。この人たちには敗戦はなかったんだ。彼らは再び戦って、勝とうとさえ思っている。
おなじ日本人ですら歴史を共有することがむずかしいのであれば、外国の人との間においてそれはどんなに困難なことであろう、と帰る車のなかで私は思いました。
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参考資料
関連エントリ
A級戦犯合祀に見られる怨霊信仰
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http://www.nozomu.net/journal/000150.php
ネットサイト
「用語解説」
パリ不戦条約、ブリアン=ケロッグ条約
サンフランシスコ講和条約
靖国神社公式参拝関係年表
東京裁判の判決一覧表
極東国際軍事裁判
ポツダム宣言
外務大臣重光葵が見たA級戦犯の無作法
クリック20世紀 ダグラス・マッカーサー
マッカーサーによる上からの革命
国防研究会図書室
楠公精神 平泉 澄
管説日本漢文學史略 敬義(崎門)学派の人々
追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第2回)
天皇の靖国、小泉の靖国
|●|日本再生倶楽部|●|靖国神社|2|
"戦犯"合祀の適否判断は日本人の心で
靖国神社参拝と“A級戦犯”の合祀 大原康男(国学院大学教授)
靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑
参考文献リスト
現代史の対決 秦郁彦 文藝春秋 2003年
昭和天皇独白録 寺崎 英成、マリコ・テラサキ・ミラー 文春文庫
日本の悲劇と理想 平泉 澄 錦正社
昭和史七つの謎〈part2 保阪 正康 講談社
重光葵手記 重光 葵 中央公論社
昭和の動乱〈下〉重光 葵 中央公論社
侍従長の回想 藤田 尚徳 中央公論社
巣鴨日記 笹川 良一 中央公論社
敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人 John W. Dower 岩波書店
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「しんぶん赤旗」の地方版ネタだが、このほど土佐市で「語り継ごう 元兵士たちの証言」という本が出た。
これはみずからも戦争体験のある小川健次郎さん(81)が、戦... [Read More...]
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天皇誕生日に発表された記者会見で、いわゆる歴史認識問題に関して、控えめな表現ながら「過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは、日本人自身に... [Read More...]
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私はA級戦犯の合祀(ごうし)は、わが国が自ら改めるべし [Read More...]
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>当たり前のことだが分祀が不可能なら合祀も不可能
佐藤さんの至言です。
前々から私も疑問なこの理屈(爆
まぁ、この理屈が正しいかどうかは取り... [Read More...]
Trackback Time: 2006/04/15 11:15
» 昭和天皇と靖国神社 from 土佐高知の雑記帳
いやぶったまげた(^^;
昭和天皇が死去直前の1988年にのべた靖国神社についての思いを記録していた、富田朝彦宮内庁長官のメモのことである。
かつ... [Read More...]
Trackback Time: 2006/07/21 21:03
» 東条英機の戦争責任は明白かつ重大である from 野分権六の時事評論
戦争責任とは、敵国に対するものではない。日本、日本国民に対するものである。 昭和 [Read More...]
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» 靖国神社 東条英機を神さまとしてお祀りするとは何事か from 野分権六の時事評論
第二次大戦後、連合国によって行なわれた軍事裁判は、勝者による一方的な裁判であるこ [Read More...]
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Comment
ご無沙汰しております。>望さん
非常に感銘を受けましたので、こちらで↓レビューさせていただきました。
http://www.review-japan.com/folder/p1046.html?
腑に落ちるところが多く、大変勉強になりました。ありがとうございました。
お久しぶり、今総研?
TBありがとうございました。拙文を執筆のご参考にしていただけたと聞き、光栄に思います。
僕の考察は自分の取材フィールドの一つである現代史の部分が中心になっており、さて、その前史の部分はどうするか、と考えていたので、紹介できる記事にたどりついて、ホッとしています(自分で書くのは時間/労力的にかなりしんどいと思っていたので……笑)
僕の次の論考としては「中国が靖国参拝を問題とする理由」及び「靖国は『追悼施設』としてふさわしいか」という内容を予定しています。。。。と言っても脱稿がいつになるかは自分でも分からないのですが(苦笑)
この問題については、何か釈然としなかったのですが、先生の論文を拝見し、感銘を受けました。まさに、私のわだかまりが晴れた気分です。私は、阿川弘之の米内光政、山本五十六、井上成美を愛読しており、その中で、A級戦犯たちの開戦にいたるまでの所業が記されていました。靖国の合祀問題は、外国に言われるまでもなく、なぜ日本人自らが戦争責任を裁けないのでしょうか?戦後一度も日本人が自らの手で、戦争責任を明らかしたことはありません。靖国問題は、はっきり言ってすり替えだと思います。日本人自身が、自ら、戦争に至るまでの真実を明らかにし、戦争責任を明確にすれば、中韓との関係改善もはかれるし、神社の参拝という問題もおのずと解決すると思いますが?
2ちゃんねるで低俗な意見ばかり見た後なので、余計に冷静で実証主義的な論文がすばらしく見えます。
勉強になりました。
素晴らしい内容に感銘いたしました。特に厚生省と靖国神社との談合の末に、昭和天皇の合意なきままに合祀を断行したというあたりの著述にはこのA級戦犯合祀問題の本質があると思えました。わが家族からは226事件、宮城事件ともに首班を輩出し2方とも自決をされました。いわゆる君側の奸を討つという主意の元に国体護持を主張した理由とは、まさに平泉史観の影響だったといえますが、2人とも合祀はされずとも、わが家族はこの”逆賊”とされた先祖を丁寧に今もお祭しております。君側の奸とはまさに靖国にあり、そういう気が致しました。天皇の名の下に散華した軍神が天皇に参拝されずとは、歴史の皮肉以上に大きく断罪される必要があるでしょう。
「このとしの この日にもまた 靖国の みやしろのこと うれひはふかし」とお詠みになられたのは、昭和61年8月15日ではないでしょうか。
KHさん。ご指摘ありがとうございました。直してみました。
内容は詳しく、興味深く読ませていただきましたが、
何で文字が小さくしてあるのか理解できない。
正直、とても読みにくい。
もっと大きくする方が読みやすいと思いますが、如何でしょう。
>そこらのおっさんへ
エクスプロラーでごらんになっていますでしょうか?
その上のほうのバーに「表示」というボタンがあります。
そこを押しまして→文字のサイズ→最大
と選択するとご自分で字を大きくすることができます。
明快な論述を拝読いたし、感銘いたしました。
当方のブログにリンクさせていただきました。
>おっさんへ すみません、エクスプロラーでは大きくできないようです。大きい版をつくります。
私は、靖国参拝反対に対しては、違った意見を持っているのですが、この素晴らしい論述に感銘を受けた一人です。文字に関しては、私は、所謂パソコンの、機能的操作で、大きく出来たのですが..。それはパソコンの個体差の問題なのでしょうか。
靖国神社合祀反対の趣旨、筆者様のさらなる、詳しいディテールを知りたい所であります。
このサイトはもしかしたら歴史的な役割を果たすかもしれませんね。読み終わって、身震いがしました。
ブログ「小さな魚と約束」のほうで「屠卒」の出典について調査した平山です。いわゆるA級戦犯合祀問題について、私なりの考えを述べたいと思います。
結論から先に述べるならば、「合祀はやめるべきではない」です。以下理由は次の通りです。
(1)「A級戦犯」等を選んだのはGHQであって、その選択は恣意的である。
(2)祭神の選定は終戦までは陸海軍省、戦後は事実上厚生省(厚生労働省)にあったのだから、その手続きが守られているかぎり、合祀は有効である。とりわけ戦後には、勅裁は不要(靖国神社は一宗教法人にすぎず当然)となっているので、第二の「統帥権違反」にはあたらない。
(3)「A級戦犯」が戦争遂行上の公務死にあたるか、については、これは明確にあたる。そのことを認めた1953年8月の国会決議によって、すべてのプロセスが開始されたことは、吉田論文にも明白である。
(4)「A級戦犯」が先の大戦においてどのように大きな権限を有していたとしても、彼らは自らに与えられた職権を合法的に行使したに過ぎない。戦争遂行上の失敗や、国内統治上の失政も多々あったろうが、そのことと、国内法上の合法・非合法とは無関係である。
(5)戦死でも戦傷死でもない靖国合祀者の先例はある。吉田松陰は処刑で、高杉晋作は単なる病死である。東條英機と彼らを比較するのはどうか、という考え方もありうるが、それは、結果として目的が達成できたかどうか、の差であって、合祀の判定基準とはならない。そんなことをしたら、負け戦で戦死した将兵は合祀できないことになる。
以上の5つの点により、いわゆる「A級戦犯」の合祀は適切であったと考えます。
ただし、私自身は1931年9月以降の日本軍の行動は、国際法上の侵略であると判断しますし、その事態を招いた日本国家の責任は重大である、とも思っております。
平山さん趣旨理解いたしました。
その場合なのですが、
1)戦争責任は誰がとるべきだったのか?
2)戦争責任を誰が裁くべきだったのか?
3)歴史におこったこと以外、可能性があったのか?
A級戦犯の合祀にかかわらず、是非ご意見を教えてください。
それではお答えしましょう。
1)戦争責任は誰がとるべきだったか?
回答)正当な手続きが守られている限り、誰もとる必要はない。たとえば日清戦争では日本が勝利をおさめたが、清国内部で戦争を指導した李鴻章や袁世凱が戦争責任を問われることはなかった。また、ベトナム戦争で、ジョンソン大統領やニクソン大統領が処罰されることもなかった。ありうるのは戦争終了後に講和条約が結ばれた場合に、敗戦国が賠償責任を負う、ということだけである。
2)戦争責任を誰が裁くべきだったか?
回答)1)により、誰にも裁くことはできなかった。ポツダム宣言には「戦争犯罪人の厳罰」が謳われていたが、通常では、捕虜虐殺などの一般戦争犯罪人を処罰する、と解釈できる。それは当然するべきだった。しかし、国家指導者を裁判にかけることを、ポツダム宣言から読み取るのは不可能である。ただ、日本国自体の問題として、戦争指導部が、戦争遂行中に「反逆罪」や「反乱罪」に相当する犯罪を犯していたとしたら、それは国内法違反なのだから、日本国の司法の場で裁かれるべきだった。それは事後立法でも何でもないのだから、国内裁判を行うのは当然の義務でもあった。
3)歴史におこったこと以外、可能性があったのか?
回答)やや質問があいまいなので答えづらいが、「戦争を回避できたか?」という問いならば、①1931年9月に満州事変が勃発したとき、統帥権を無視して戦闘に参加した朝鮮軍(朝鮮内日本軍)の指揮官を厳罰に処した場合、②1937年7月に北支事変が始まったときに、政府の「不拡大方針」に背いた現地司令官を厳罰に処した場合、③1941年11月の「ハルノート」中の、「オールチャイナ」を、満州を含む、と解釈せずに、あくまで中華民国内部とすることで、シナ派遣軍の漸次撤退を表明できた場合、以上3つのいずれかが可能だったなら、1945年8月の破滅は防げたと思う。
だいたいこんなところです。
平山様
ご誠実な回答ありがとうございます。
それではもう少し・・・質問を。
これは強い形の質問ではありません。
私自身が自問自答することです。
ナチスには戦争責任があったか?
ナチス幹部をA級戦犯にしたのは間違いだったか?
ニュールンベルグ裁判は必要なかったのか?
(もちろん国体が持続した日本とは、まったく別問題として、ですが)
福沢諭吉の真実(文春新書)アマゾンで買いました。
会社は誰のものか(新潮新書)もよろしくです~
ニュールンベルク裁判については私なりの考えがあります。それは、国際軍事裁判という形で裁くのではなく、旧ドイツ連邦共和国の国内法規で裁判ができたのではないか、ということです。つまり、1933年1月にヒトラーが合法的に政権を獲得後、3月に全権委任法が成立しますが、これは議会が議会でなくなる、という法律ですので、この時点で国家反逆罪が成立する、のです。
以降のナチス政権は、旧ドイツ共和国にとって非合法となり、ナチスの犯罪をドイツ人自らの手で裁くことが可能となります。もちろん1945年5月に戦争が終結した時点で、すでに冷戦は開始されていましたから、東西の対立の中で、旧ドイツ共和国がすぐさま主権を回復することは、難しかったでしょう。
実際の裁判は、戦勝国がお膳立てをした国際軍事裁判と似た形となったかもしれません。しかし、形式的にせよ、ドイツ人の裁判官が旧ドイツ共和国の法律で反逆者(ナチス)を裁くことができたなら、ドイツ人が受けた民族的屈辱感や、事後立法との批判も、多分に軽減された、と思います。
先のイラク戦争で敗者となったフセイン前大統領らを裁く裁判も、イラク人自らの手で行われると聞いておりますが、おそらく、第二次世界大戦後の2つの国際軍事裁判に投げかけられた批判を、重く受け止めた結果でしょう。
釈迦に説法とは存じますが・・・
東久邇内閣では戦犯の自主裁判を検討いたしました。ひとつには間接統治ながら政権が残っていること。(ドイツの場合完全に政体が消滅し占領軍による軍政でしたのでより難しかったと思います)
また、日本側でまず処罰しておけば、そのうえで裁判が実施されても苛酷な量刑は免れるのでは、と考えられたからです。
しかしこの閣議決定に対して大反対したのは昭和天皇です。(以下児島襄の日本占領Ⅰより。)
「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽くしたる人々なるに、之を天皇の名に於いて処断するは不忍ところなる故、再考の余地は無きや」
木戸幸一侯爵も反対でした。
「どうしてあんな考えが出たのか、僕にはフにおちなかったな。天皇の名で戦争をして、こんどは天皇の名で指導者を裁くというのは、当時の機構では不可能だ。それに、やるとなれば、どうせなんだかんだと一種の国民裁判になる。共産主義者もでてくるだろうし、そんなお互いに血で血を洗うような裁判を天皇の名でやるというのは、賛成できないね」
結局重光外相がこの閣議決定を、GHQのサザランド中将にもうしいれましたが、簡単に言うと、「A級(政治犯)、B級(軍司令官などの責任者)は君たちには無理だろう。C級(俘虜虐待など)についても、大いに疑問である」といわれました。
その後東久邇内閣は「真珠湾を忘れてほしい」発言など、時代の変化についていけないことがあきらかとなり、総辞職しました。
次に幣原内閣において、進歩党提出の「戦争責任に対する決議案」(ようするに議員たるものは静かに過去の行動を反省し深く自粛自戒すべきだ)を可決し、蝋山政道ら十人の代議士の辞任を行った程度です。
これらを見ていたホイットニー准将は「いまや、最高司令官の直接命令がなければ、日本国民は諸指令が求めるいかなる屋内清掃の措置をとることもなさそうである」と「追放令」で述べていますが、私も彼の日本人観に、ほぼ同意見です。
東久邇内閣での戦犯裁判案については承知しております。ただ、そこでは極東軍事裁判におけるABC級いずれもが含まれており、私が考えている陸海軍法務部による通常の軍法会議とは違ったものです。
先に述べましたように、ある国が戦争を開始すること自体は、違法行為でも何でもありません。極東軍事裁判で唱えられた「平和に対する罪」は、欧州戦線終結後に突然出現したものです。明らかな事後立法であり、極東軍事裁判でいわゆるA級戦犯を裁く国際法上の根拠など存在しないのです。
そのおかしさは次のような事実からも明らかでしょう。すなわち、ソ連軍は1940年にバルト三国に一方的に侵攻し、その後半世紀占領しつづけましたが、そのことは非難はされも、責任者が処罰されることはなかったということです。つまりソ連は「平和に対する罪」を犯していなかったことになっています。
繰り返して言わなければなりませんが、いわゆるA級戦犯とされる人々が処罰されるのは、国内法違反があった場合のみに限られます。つまり、東條らがクーデターを起こして政権を奪取しようとした、というようなときです。私の知るかぎり、東條ら大東亜戦争関係者にそうした違法行為はなかったのですから、彼らの裁判は国内の軍法会議では取り上げられることがなかったのは当然といえます。
ただし、一般の戦争犯罪として軍法会議にかけられるべきだった、A級戦犯は存在します。つまり本当ならB級なのに、なぜかA級になっている人々がいるのです。例えば、支那事変当時現地の指揮官や幕僚であった、武藤章や松井石根らです。
前者は1937年7月の北支事変勃発時に「不拡大方針」を無視して意図的に戦争を大きくしました。これは「抗命」にあたります。また、後者は同年12月の南京事件で、戦時捕虜の保護を怠りました。これは「俘虜虐待」にあたります。これらは当然旧陸軍の法規にも抵触するのですから、それぞれ軍法会議にかかってもおかしくはなかったのです。
陸軍の法務部は、戦争中も当然の義務として軍律違反容疑の軍人たちを裁判にかけていました。戦争終結後もただちに陸海軍省が廃止となったわけではないのですから、武藤や松井らを通常の手続きによる軍法会議で処罰することも可能だったのです。
法的にはそうですが・・・そうした深謀策慮なり正しさへの志向が一ミリでも軍部にあれば、あの人たちはそもそもあれほど無残な敗北と大災害を、日本国民にもたらさなかったのではないでしょうか?
靖国 拝読しました。同じ日本人でも、歴史を共有することができない。ということ。やはり、ひとつの事実にくくろうとすることに、無理があるのしょう。靖国の歴史に焦点をあてて、考えるという発想は、初体験でした。私自身・靖国を意識したのは、英和の社会科の授業だったと思います。敬虔なクリスチャンだった、教師が、全否定していたことが、記憶にあります。でも、そのとき私が思ったことは「ママのお兄さんも、戦死しているからなあ。だめっていわれたってさあ・・・」というものでした。
それから、11年前、娘が、靖国の隣のS学園にお世話になることになり、カルチャーショックを受けました。幼稚園ママたちが、平気で靖国の駐車場を使っているのです。そして、駐車場の予定表には・・・S学園保護者会・G学園運動会など、組み込まれているのです。靖国とカトリックの鷹揚さというものを感じました。英和だったら絶対にありえない世界が、ここに繰り広げられているのです。大変勉強になりました。
一緒にいきていくということって、こういうことなんじゃないかって
思います。いわゆるご近所づきあいをしているのです。
戦争したがる国としたがらない国があるように・・・主義・主張より、大切な局面ってあるのではないでしょうか。
あるマ・スールは、「私にも戦死した兄がおります。でも、私には宗教上の立場がありますので、お参りは出来ません。でも、靖国のまえを通るときは、心の中で、手をあわせております」とお話してくださいました。私は、心が震えました。真の宗教家だと思いました。
亡くなった父の口癖に「ぐんかんにいわし」というものがありまして・・・自分は軍艦で,女・子供は鰯だということで、「何を言われても、何があっても大丈夫」と思っていると時々いっておりましたっけ・・・
時代の流れを感じるのは、神宮外苑を通るときです。円周道路に駐車する車があるということです。銀杏並木は、許されても、円周道路に、停車するなんて、許されない!と言い放った父は、もういません。「理由はない!ここは、外苑だから・・・」といわれた記憶は、鮮明ですが・・・私は、娘には話していません。
また、私が働いていた幼稚園は、旧三井財閥の三井八郎衛門園長が、経営していたので、たまに、敗戦後の占領下の話を聞く機会に恵まれました。マッカーサーが、三井本社の自分の大切にしていた机の上に土足で、足をあげたときの悔しさは、今でも忘れられないとおっしゃっていたことが、昨日のように思い出されます。何もかも失って、残ったのは、この幼稚園だけだけど・・・とおしゃっていました。子供の前に立たれたときのやさしい笑顔は、今でも目に浮かびます。
昨日今日のことで、こう発言するのも、僭越なんですが・・・
吉田さん。靖国もふくめて、本を書いてください。もっと多くの人々に、貴殿の考え方を広めるべきです。個人的には、政治家になってほしいと思いますが、マスコミに登場するほうが、人々が動くかもしれないけれど・・・本当にわかる人に、政治をやってほしいと思います。
>>高槻眞知子様
このような方に日本の政治を任せたらたちまち”戦争”になってしまいますよ。
敗戦を認めない老い先短い人に、このままいい思いで人生を終らせてあげても良かったかなと思う貴方の優しさより、同時に感じた怒りの方に私は共鳴しております。
靖国問題で「A級戦犯者と言うのは戦勝国の言葉であって日本の言葉では無い」という意見には大賛成ですが、だから彼らは英霊だというのには大反対です。
私のジャーナリスト・知識人達に対する不満は、「A級戦犯」に代わる言葉を捜そうとしないことです。
国の内外に膨大な悲惨さを生じたあの戦争を、戦勝国によって押し付けられた裁判という被害者意識で戦争責任を総括しただけで、日本国の国民として、日本人の誰が・日本人の何処がいけなかったのか自分たちで総括していない。
このように考えたとき、あの戦争は、誰が責任を取ったのか?。A級戦犯たちは責任を取ったのでなく勝者の理によって処刑されたのだ。私もそう思うが、だったらいったい誰が責任を取ったのか、誰も責任をとらなかったのか!
「A級戦犯」の人たちは、A級戦犯では無いが、間違いなくA級戦争責任者である。
私は昭和20年5月生まれなので知らず、後年長兄から聞いた話ですが、叔父が学徒動員によりサイパン沖で沈没死したという知らせを握り締めた祖父は、そのとき天を仰いで「東条のバカ野郎」と叫んだという。当時、富豪地主で知識人でもあった祖父は責任は東条英機に有りと認識していたと思われます。
そう考えれば、あの人たちを英霊と一緒に靖国に祀るのに抵抗感が出て当然だと思います。
それとも、あの方々は、戦争を恨んで死んでいった他の英霊たちに、神社の奥で永遠にイジメられ続けなければならないのだろうか。
戦争責任者という表現に私はこだわっているのですが、(その理由は)、逆にこういう言葉の発想が出てこないところに、日本人の政治意識の欠点があると思うからです。
つまりは、この国の国民は、政治というものは善意で行うものだから、結果の良し悪しで責任は取らなくてもいいと思っているのだと感じているからです。考えてみてください、あの戦争の責任は、誰も取っていないのです。何百万人も死んだというのにです。
あの戦争は、どういう環境の中で、誰たちが・どういう勘違いをしでかしたのか、その結果、どこどこに・どれだけの悲惨さが生じたのか。戦後、日本は変わった、「変わった」から責任は論じなくてもいいのか?。
政治の結果に誰も責任を取らない無責任的風土は日本人の特徴なのか!
バブルの頃、社会党に押されて選挙に負けそうになったとき、自民党のキャッチフレーズはこうだった、「戦後の日本を繁栄に導いて来たのは、我々自民党だ」と、その通り!学者も学生も赤かぶれし、革新支持であることが良識であるかのような風潮の戦後を、“よく頑張った”と小泉さん流に誉めてあげたい。が、だったら、バブル崩壊後の困窮も「我々の失敗だ、責任を取って政権から降りる」と何故言わない!
社会保険庁の失敗も雇用保険の行き詰まりも道路公団の無駄金も、全て政治家の監督不行き届き、政治家のたかり政治の結果です、役人のせいにしてますが、本来行政を監督するのが政治なんだから、失敗や混乱はみんな政治家の責任で。私がその責任者ですとは誰も言わない。
そして、ジャーナリストも学者も、誰一人として、政治の責任は追及しても政治家の責任は追及しない。政治家もみんなのせいにして、自分の責任を曖昧にして逃げてしまう。
戦争責任者を問わないばかりか、同情・憐れみ・果ては英霊にまで祭り上げてしまうこの国の国民体質は今後も変わることはないのだろうか?!
かくして、永久に、周辺国からの外交餌食になり続けるような気がしてならない。
よくまとまったテキストだと思いますが、国際法に関する記述にやや誤解があるかもしれませんので指摘させて頂きます。
国際法は、もともと万国公法、海洋法を祖とするもので、公海上を運行する船舶において、どこの国にも属さないことから、国家間に共通する実定法が必要となって発生してきております。必然的に「海洋貿易が可能な国家」間の慣習法が初期の性格でした。それゆえ、航海技術のない国家が、国際法成立の過程において国家として認められないところから、ご指摘のような列強諸国の植民地化が合法となっていたものであります。単に、列強諸国の力の支配を、後付で正当化した理論とは断言できません。国際法成立の経緯から考えますと、いささか解釈に一面的のきらいがあるように思われます。
また「戦後は米ソの2国が国際法を構成」とは、少なくとも現在において定まった評価とはいえません。
次に、ブリアン=ケロッグ条約においては「侵略戦争」と「自衛戦争」の定義について決着せず、単に当事国が「自衛戦争」と称すれば自衛戦争になるという結論をみたと記憶しております。ことさら、自国の戦争を「侵略戦争」と呼称する国はございませんので、本条約が国際法上において実効性を持つか否かは疑問ということになるかと思われます。
また「事後法」につきまして、拙学で恐縮ですが蛇足を申し上げます。そもそも、西欧諸国における「法」の源流は、法史学的にいえば「ローマ法継受」すなわち、ローマ法にその基礎的な法の範をとるものです。ところで「事後法」自体、ローマ法において既に見られる法概念で、事後に定められた法が事前に遡及してはならぬ(法適用不遡及の原則)ことになっておりました。それゆえ、近代法の運用はすべて、ここに従っております。国際法は慣習法でございますが、このような不文法であると成文法であるとを問わず「法」として運用される限り、事後法の概念もまた該当すると言わねばなりません。それゆえ、国際法において「事後法」は無関係、とするのは無理ではなかろうかと思います。
ゆえに、あまり「噴飯モノ」などの強い表現は適当でないと思います。
大昔に、法哲学を専攻しておりましたので、一応関連分野でございました。もしも私の思い違いがございましたらご指摘ください。
やや気になりましたので、以上よけいかもしれませんが、述べさせて頂きました。
なお、全文のご趣旨を否定するものでは決してございません。
>偏屈な元法学の徒さま
貴重なご意見、まことにありがとうございました。
気になっていたところでした・・・考えて直します。
一点質問があるのですが、ナチスに対する戦争犯罪の追及も、完全に事後法によるものだと思うのですが、これに対する学会などの評価はどうなっているのでしょうか?
ニュルンベルク裁判に関する国際法的評価についてご質問がございましたので、拙学ですがご回答申し上げます。
結論から申し上げますと、ニュルンベルク裁判についても、「事後法」だという批判も存在しております。しかし、あくまで批判にとどまっておりまして、主流ではございません。この違いは、一言で申し上げて「ホロコースト」をどう見るかによって生じております。
ここからは、拙学の国際法知識では不十分ですので、専攻しておりました法哲学の視点によって支持と批判を整理させていただきます。
法哲学の主流は、大きく2つ「自然法論」と「実定法論」に別れます。
自然法論は
「法は、アプリオリな自然法がまずあって、自然法をそれぞれの状況によって成文化(不文法も含みますが)したものが法律」と見ます。
たとえば、天賦人権思想などが分かりやすい例です。人権は、アプリオリに存在しており、法は単にそれを言語にして表現しただけと見る立場です。
この立場から見ますと、ホロコースト自体が「自然法に違反」しております。自然法自体が、国際法より以前に(というか、すべての法より以前に)存在しているわけですので、事後法にはあたりません。よって、ニュルンベルク裁判は支持されます。
ただし、実定法論者からは「自然法は、その理論自体が単なる現状追認にすぎない。強者が恣意的に運用可能」との批判がされることとなります。
実定法論者は、「法は、実際に定められ運用される実体をもってはじめて法である」と規定します。ですから人間が「法でない」と決めたら法ではありません。国際法は慣習法ですから、国家間で慣習として成立している事自体で法であると考えます。
すると、当然に「事後法」の批判がニュルンベルク裁判に出ることになります(実定法論における原則的立場)この「事後法」批判を回避するには、「ニュルンベルク裁判のときに国際法として成立した」という論理しかございません。そこで、国際法における「事前に想定出来なかった事態の出来」を主張することになります。すなわち、慣習として成立する事自体が不可能なほどの事態が出来したときには、その場で国際法としての成立を認めよう、というものです(実定法論における特例主義的な立場)
この論理は、実定法の原則的立場の学者からは「国際法にのみ、そのような立法手続きを認める法理がない」として批判されております。
また、自然法論者からは「単なる現状追認理論である」として、実定法論者が自然法論に対してしたのと全く同様の批判がなされることになります。
ついでですいませんが、「罪刑法定主義」についても申し上げます。
国家犯罪においても「罪刑法定主義」は基本的に機能すると考えるのが通常の法学徒の立場であろうと思います。刑法で学ぶ罪刑法定主義は、単に過料のことを指しますが、法哲学的に申しますと「法に違反していないものは罪ではない」という考え方で、近代法の根本的な法理です。つまり、「罪である」とするのであれば、それは必ず「法に反してなければならない」というのが、罪刑法定主義です。国家に適用できる法が国際法しかございませんので、国家の犯罪が成立するためには、国際法違反が必須となるのです。
なお、法哲学的に見ますと、拙学が学びました80年代においては、一般的な法学会では自然法論が強かったと思います。それゆえ、ニュルンベルク裁判についても、自然法論からの支持が一般的であったように記憶しております。ただ、その後の経緯を見ますと、国際法においては、その成立が慣習法であることから実定法論が優勢になってきたために、近年になって改めて批判が出てきているのではないでしょうか。
面白くて興奮してしまいます。
あとでまた質問させてください。
まずは御礼まで。
まず知りたいのは、欧米法(慣習法)と大陸法の違いについて、そして近代法というものとの位置づけです。
浅学のものがいろいろ書いてすみません。考え中でして・・・
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http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hoogen.htm
「英米法諸国の法源は、判例法・慣習法(不文法主義)であり、大陸法諸国の法源は、制定法(成文法主義)であるといえる。 」
「古代、中世において慣習法は、第一次(首位)的法源として重要な地位を占めていたが、18世紀末から19世紀初めにかけて近代市民国家が成立するや否や、中央集権的統治機構確立のために、階級支配の道具としてすべての法を支配階級の手中に収めようとする政治的要求と、当時の指導的法理論であった「人為に基づかず、なんらかの先験的根拠に基づいて存立し、時と場所を超越する普通的妥当性をもつ永遠の法の存在を主張した」自然法学理論の法学的要求が相まって、慣習法は実際的に圧追を受け、法埋論的にも排除ざれた。その結果、18世紀末から19世紀初頭に制定された各国の近代市民法は、憤習法を否認する態度をとった。1786年のオーストリア・ヨゼフ法典、1794年のプロイセンー般ラント法、1804年のフランス・ナポレオン法典がその代表である。
中世から近世への変革、つまりブルジョア革命によって封建的階級社会から自由・平等を基調とする近代市民社会(ブルジョア社会)ヘ移行するという革命的変革の時代は、旧来の封建社会の経済生活から生成されていた慣習法を否定した上で、ブルジョア社会に適合する新しい法規範を形成する時代であったがゆえに、それは当然の帰結となった。 」
「また自然法学埋論は、天賦(てんぷ)人権思想(人類が社会を構成する以前、つまり自然の状態で、個人が生まれながらに享有する権利であり、国家といえどもこれを奪うことができない権利(自然法上の権利)を背景に、永遠不滅の法の存在を主張して、封建国家の支配権力から市民を解放する法的役割を歴史的に果すのであるが(その意味において自然法学埋論は、ブルジョア革命を法的側面から支えたといえる)、自然法を制定法(成文法)によって確認させることを促進する意味からも、個人の人権を認めなかった前近代的封建性の遺物であった当時の慣習法を否認することは必然的な帰着を意味した。ところが、19世紀中頃になると近代国家は確固たるものとなり、封建的遺物を一掃した上で資本主義経済社会の発展が急速に進んでくると、制定法のみでは発展・流動する経済社会のすべてを規律できなくなってきた。」
同時に、制定法のみを市民社会の法源とするとき、健全な経済社会の発達を阻害する恐れすら否定できない状況が生まれた。ここに再び慣習法を認めなければならない時代が到来するのである。それはまた、かつて革命的役割を果した自然法学理論の終焉と、法と民衆の歴史的関係を尊重する歴史法学の台頭を意味した。
この記述は正しいと考えていいのでしょうか?
次に罪刑法定主義を当然とする大陸法国家と慣習法国家の判断の違いについてなのですが。
最近の事例で実感したことを二があります。
1)この前のライブドアがニッポン放送の株式を東証のネット夜間取引で大量購入したのは、個人株主の権利保護という法精神にもとることでしたが、「想定外」の事態であり現状の法がそれを禁止していないため、日本の司法制度はこれを例外的に認めました。(その後法改正をして禁じました)私の知人の多くは、慣習法であるアメリカならばこれは認められなかっただろう、といいます。
2)もうひとつの実例は、これは佐々木和子さんという人のHPからとったのですが・・せんだってのイラク攻撃の正統性について、です。
「この3月に始まったイラク攻撃では、新たな安保理決議を必要とする仏独露と新たな安保理決議は不要だとする英米とに分かれ、日本政府は後者を支持、ただ野党その他は前者の立場でずいぶん批判を受けたものです。国連至上主義を捨て、対米追従だと。この議論は、元を辿れば、仏独の大陸法と英米法とが基本的に異なることに端を発していると考えられます。
大陸法は成文法主義、すなわち法律として記された文言及びその解釈を最重要視します。対する英米は慣習法(判例法)、すなわち文言よりも具体的紛争に合った妥当な解決法を重視します。日本は明治以来、フランス・プロシアに倣ったために仏独と考え方が似ています。つまり、国連憲章では自衛(個別・集団)のための戦争と国連安保理決議による戦争以外は認めていない(51条)、だから新たな決議が必要、となるわけです。
ただ、イラクのフセイン政権がわずか20日で崩壊したという結論から見れば、日本が最初からアメリカ支持の立場を鮮明にしたことは正解でした。仏独は壊れた対米関係をいかに修復するか、苦悩していると言われています。」
このご意見が正しいものかどうか、わからないのですが、いずれにせよ同様の問題が現在の国連でも起きている。ながーい問題なんだな、ということを感じました。
ばらばらいろいろ書いてすみません。
次は、欧米法と大陸法の違いがなぜ生まれ、世界への伝播したかのご説明です。
http://www.rieti.go.jp/users/economics-review/012.html
鶴さんという経済シンクタンカーの比較法制度に関するご意見なのですが・・
「各国法制度の起源は、19世紀にヨーロッパの列強が世界の大部分を制覇し、法律を含めた彼らの制度を植民地へ移植した時期にさかのぼることができる。イギリスが慣習法(common law=陪審員のような非専門家の裁判官、幅広い法原則、口頭弁論を重視)の伝統を南アジア、東アフリカの植民地、オーストラリア、アメリカ、カナダなどに伝えた。フランスは、その民法(civil law=国が任命した専門的な裁判官、法律の条文、書面記録を重視)をナポレオンによる征服時にスペインやポルトガルを含む大陸ヨーロッパの多くに伝え、それらが更にラテンアメリカ諸国や北、西アフリカやその他の地域へ移植された。一方、ドイツの民法の広まりは、東アジア諸国など、もっと限られた形となっている(Shleifer (2002))。」
「このようにイギリスとフランスで異なった法制度が生まれたのはなぜであろうか。Glaeser and Shleifer (2002)は、法制度の起源が形成された12、13世紀にまで遡り、法学者の歴史分析を参考にしながら検討している。当時、比較的平和な時期にあって、イギリス国王は絶大なる権力を保持する一方、フランス国王は、戦時下であったこともあり、諸侯と同じくらいの権力しかなかった。ここで、法制度のシステムを考える上で重要な視点は、法の執行を行う者が、地方の有力な利害関係者から脅されたり、賄賂を受けたりすることをいかに防ぐかという点である。イギリスの場合、諸侯(大名)はそれほど強くなく、こうした「脅し」(bullying)がそれほど深刻でなければ、争いごとの判決を陪審員のような地元の独立的な決定権者に任せる方が効率的であったといえる。一方、フランスのように諸侯の力が非常に強く、「脅し」の影響が強い場合、「脅し」に屈服しやすい地元の人間に裁判を委ねることはそもそも難しく、こうした「脅し」に立ち向かえる唯一の軍事力を持った国家が任命し雇用した裁判官が、「脅し」に影響されないような判決を行うことが望ましくなる。このように、イギリス国王はフランス国王に比べて、地元の法の執行者を保護できるだけ十分な力を持っていたため、こうした制度の違いが生まれたと考えられる。」
ご紹介のURL、一通り拝見致しました。
法学の世界において、英米法と大陸法という区分は普遍的であり、
「英米法諸国の法源は、判例法・慣習法(不文法主義)であり、大陸法諸国の法源は、制定法(成文法主義)であるといえる。 」
という指摘は、拙学が法哲学を学んだ時代において主流といえる解釈であったと思います。大筋で、一般の法学徒からは首肯され得るテキストではないでしょうか。
しかしながら、このような違いが生まれた過程においては、法史学上でも諸説が分かれており、決定的な解釈がなかったと記憶しております。
拙学では、よって、以下の部分のテキストに関しては、論評する力がございません。
英国とフランスのそれぞれの国王の違いという部分については、それこそ専門外でございます。
ただ、英国の場合、12世紀のリチャード獅子心王は弟に反乱をおこされ、13世紀に入ってジョン失地王のためにマグナカルタによって専制政治から議会の出現をみたことを考えますと、フランスに比較して格別な強権を当時の英国王がもっていたという見解は、やや意外の感がございます。
一方、13世紀のフィリップ尊厳王は、軍を強固に統率し、一時ロンドンにまで攻め込んでおります。
個人的には、無理のある説明ではないかと考える次第です。
また「ライブドア」の件ですが、ご紹介された見解は、おそらく一般の法学徒であっても充分理解可能な議論だと思われます。
全面的に首肯され得るかどうかはわかりませんが、支持を得ることは充分可能だろうと思います。
また、イラク戦争につきましては、むしろ法学上というよりも政治上の問題であろうかと思います。法概念の違いに関する議論については、既に今日では、英米法によると大陸法によると関わらず、国際法自体が一つの法体系として認知されておりますから、国家間の行動の是非に関して、国際法をもとに議論することは可能です。しかしながら、法概念の違いそのものという点について、国際法はこれを容認していないと考えるべきでありましょう。
そうでなければ、そもそも国際法そのものが法体系としては否定されることになってしまいます。多くの法学徒が、国際法を一つの法体系として認めている現実がある以上(国際法自体は、自然法実定法いずれの立場からも法体系としては認知されております)少なくとも、法学徒としては議論の範疇にないというべきではないでしょうか。
そうしますと、国際法は慣習法、大陸法、どちらの影響をより強く受けているのでしょうか?そもそも海洋法から始まったことから、イギリスの慣習法の影響が強い、と考えていいのでしょうか?
あるいはその両方が混ざっているのでしょうか?
(こうした質問自体が的を得てないとしていたらごめんなさい)
先のたとえで、イラク攻撃では、1)新たな安保理決議が必要だった2)新たな安保理決議は不要だの両意見があったとのことでしたが、これに対する国際法からの一般的見解はすでにでているものなのでしょうか?
bold様。
ご質問の内容が、国際法に対する見解の中でも微妙な問題に及ぶ内容となってきておりますので、拙学でご回答申し上げるのをためらってしまいますが、恥を覚悟でご回答申し上げます。
国際法が慣習法である、ということについては、異論のある法学徒はまずおりません。そうしますと、先の英米法対大陸法の軸で判断する限り「どちらかとえいば英米法の影響が強い」中で国際法が成立してきたと言えると思います。この見解は、拙学が先にご説明申し上げました通り、法史学上から国際法の源流のひとつを海洋法に求めることができる点からも支持されると思います。
すなわち、大航海時代を経験しなかった大陸(具体的には仏独)は、国際法成立の過程に関して大きく寄与しなかったと思われるからであります。
しかしながら、現在の国際法において、これが全く大陸法の影響を受けていないとまでは言えません。当然、その後の国際社会の進展に伴い、大陸法的な法理を持つ諸国家が国際法を成立させる諸条約に関与してきております。その中で、一時、国際法が大きく自然法論に傾く結果となった、と拙学は見ております(この見解は大きく認知されているとまでいえません。いわゆる、国際法の自然法から実定法への「揺り戻し」はそもそもなかった、一貫して実定法的であるという見解も強く、むしろそちらが主流かもしれません)
ここから、法哲学の領域にあえて踏み込みますと、
英米法=慣習法主義
大陸法=成文法主義
であり、それぞれ法哲学の立場から分類すれば
慣習法=実定法主義
成文法=自然法主義
といえます。もちろん、大変おおざっぱな分類であるとお心得ください。
国際法の場合、法哲学的な立場では「実定法思想」が色濃く、よって多くの法学徒は簡単に「国際法は実定法である」と表明することになります。
さて、ニュルンベルク裁判に関する考察で申し上げた通り、実定法主義で考えると「事後法」批判が必然的に生起してしまいます。そこで、一種の特例主義を採用するわけですが、これ自体が「国際法の立法手続きを支える法理として成立しない」批判が根強く残る結果を生んでおります。
なお、東京裁判批判についても、付言させていただきます。
東京裁判に関しては、「人道に対する罪」ではなく「平和に対する罪」がA級戦犯に適用されたことが問題になっていると理解してくださって結構です(ニュルンベルク裁判との相違点)。
すなわち、「平和に対する罪」とは、具体的には軍事力による「先制攻撃」のことであると実体的に簡単に規定してしまうことが可能なもので、このような罪が国際法でいう「事前に想定できない事態の出来」であったか否かが争点になってしまうからです(事後法を回避する特例主義を認めた上での東京裁判批判)
これで、国際法学者の中でも「ニュルンベルク裁判は合法、東京裁判は事後法であった」とする説が出てきてしまう法理が、およそご理解いただけるかと思われます。国際法学者が今でも多く東京裁判批判を行っておりますのは、上記のような法理によっております。
さて、イラク戦争にかかるご質問ですが、この件に関しては拙学も長らく研究室から遠ざかっております故、正確にお答えする術を持ちませぬ。
少し調べてみましたが、拙学が「通説」として定着すると思われる説を発見することができませんでした。
興味深いのは、国連憲章の国際法上における地位の問題です。国連憲章が条約と同等の国際法的な規範となっているという慣習を支持することは、ちょっと難しいのではないかと思われるところがございます。一例をあげますと、国連憲章においては、いわゆる専制国家でないこと、人権に配慮された政治形態をもつことが国連加盟国の条件となっておりますが、現実にはこれに反した加盟国が多数ございます。すなわち、これらの憲章に関しては、慣習的に無効となっていると見ねばなりません。してみますと、国連憲章自体の慣習法的な効力の問題、また憲章の1条づつの慣習としての成立の吟味がされなければならないことになります。つまり、国際法的に見て、国連はいまだ有効な法原理としては成立したと言えない、という批判が考えられることになります。
この場合、実は、今後もイラク戦争のようなケースを積み上げないと、判断は不能(国際法的には)となってしまいます。
イラク戦争に関しては、拙学の私見であり、現役の学者様から見た場合には笑止である可能性を疑えません。
よって、恥かきもここまでとさせて頂きます。浅学非才の駄文、お許し下さい。
まさしく私が理解したいと思っていたことでした。
こうした勉強をウェブを通じて行えるということは、本当にエキサイティングです!
よく考えさせていただきます。
うまくかけるかどうかわからないのですが。
偏屈な元法学の徒さまへの問いかけということではなく、自問自答のようなものです。
例えば・・・歴史のイフで日独伊の枢軸連合が勝利したもうひとつのバーチャル世界。その世界にはもうすでにユダヤ人が一人もいません。そしてヒトラーの独裁イデオロギーに反対する人はすぐに連行処刑されます。その世界の国際法は、ホロコーストを正当化しているでしょう。
もっと極端な例。宇宙戦争が起こり圧倒的な軍事力をもった宇宙人が世界を占拠して、強引に「ほにゃらら星法」の施行を迫った場合。これに反対する法学者が、たちまち彼らの餌になるとしたら。国際法=ほにゃらら星法にならざるをえません。
法制度はそれを実現する法執行能力を前提にしています。実現不可能な法は自らを蝕むと聞いたことがあります。
また法制度をめぐる議論は、それを許される安定した社会と表現の自由が存在しなければ公然たるものにはなりません。
結局のところ、最高の軍事力パワーを持つ国や国家連合によって新たに作られる国際政治ルールが新しい慣習となっていく傾向が強いことは否めない。それが法定主義にそむいていたとしても、批判し是正するだけの軍事力を、反対を主張する人々が持たない限り、現状追認=新しい慣習とならざるをえないのではないか。
この100年を見ればその力は、英米などの慣習法国家にあるように思います。(それがやや極端になっている側面もあると思いますが)
一方そうした国は今のところ専制の対極にあり、もっとも表現の自由を認める国でもある。さらに経済の発達を促す力ももっともあることは事実。こうしたことは果たして歴史の「偶然」なのか?
bold様のご指摘は、誠にもっともだと思われます。
そして、そのご指摘のテキストは、そのまま現在までつづく法哲学という学問分野の主題となっております。
国際法のみならず慣習法(たしかに英米法に強く表れているように思われます)は、「強者の権利」を正当化する思想の一面がございます。(自然法思想からの実定法に対する批判として)
たとえば、ご指摘のナチスによってユダヤ人が全滅した世界に近い事態は、現実に起きております。拙学が一例をあげますと、インカ帝国にせよ、ハワイ王朝にせよ、一族関係者が全滅してしまえば、誰も意義を申し立てるものはおりません。(法は、死者の権利を保護することは、法的利益がない故に拒否いたします)そして、国際法が、現在の政権を否定するには至らないことも指摘されなければなりません。支配が恒常化し、安定してしまえば、慣習が成立したと見てしまうことは否定できないのであります。
さらに、ことに国際法においては、他の法と根本的に異なる点がございまして「自己救済を認める」「相互主義」であるという点です。
「自己救済」つまり、国際間で仮に「国際法違反」である事態が生起したとしても、軍事力がなければ「正義を実現する力がない」ことになります。これでは、法が画餅となります。それゆえ、この場合に、国際法は軍事力の行使を認めてしまうのです(交戦権の容認)。このことが、bold様のご指摘の「勝てば官軍」につながるのではないか、という批判を、実質上支持してしまうことは否定ができません。まさに、慣習法、なかんづく実定法思想に対する批判として、今でも生きている主張なのであります。(なお、相互主義に関しては、別の要素がございますので、説明を控えます)
そこで、自然法思想に基づく正義の実現の必要性、すなわち「勝った者が正義」ではなく、正義あるものに力を与えるべきであるという議論も生じてまいります。(乱暴に単純化した表現お許し下さい)国連の発足時には、そのような理念があったことは指摘されてしかるべきでありましょう。
しかし、一方で、自然法思想が、このような批判に耐え得るかというと、そうともいえないのです。すなわち、bold様の例で申し上げれば、ヒトラーの考える「生まれながらの人間の権利」異星人の考える「人間の権利」は異なります。(異星人は人間でない存在でございますので、仕方ないとはいえますが)もっと言いますと、宗教が異なり、歴史がことなり、民族が異なる人間が考える「アプリオリな人間の諸権利」が、果たして同様でありましょうか?
現在でも、キリスト教徒とイスラム教徒の考える「自然法」が、同じものを想定していると言い得るのか?そして、それが異なる場合に、自然法思想においては簡単に、自己と異なる思想を排撃し得る「正義」を作り出すのではないか?という批判であります。国家による横暴が、つねに「正義」の名のもとに行われてきたことは、拙学が申し上げるまでもございません。むしろ、過去の慣習による積み重ねを必要としないだけ、自然法思想においては「正義」を作り出す悪弊が、より大きいという批判であります。(一方で、自然法思想がブルジョア革命を支え、結果として今日に続く近代的民主国家誕生の理論的支柱となったことも事実であります)
そこで、人間が想定し得る「理想」としての自然法よりも、実際に人間が理想に向けて進歩し得る存在であるならば、その人間の行動の積み重ねそのものこそ、信頼に値する(=実定法思想)ということになります。
すなわち、bold様のテキストの末尾の部分について申しますと、実定法思想では歴史の「偶然」ではない、慣習法の背後には信頼し得る「正義」が存在し得るのだ、ということになるのです。
そして、この法哲学における2大潮流は、今日までそれぞれ続くものとなっております。これが統一された「メタ法哲学」というべき思想は、いまだ登場しておりません。
法によって正義と罪が規定される限り、この2つの思想のいづれかの範疇に含まれざるを得ないという点が、現在の法学徒の基本的見解である、とご理解くだされば間違いないものと存じます。
bold様のテキストを拝見しておりますと、論理が見事に本質的問題に迫ってきておられることに驚きいっております。
最近の法哲学における成果には疎く、現在では間違いがあるかもしれませんが、学んだ基本的な輪郭のみはお伝えできたような気がしております。
駄文をお読み下さいまして、ありがとうございました。深謝いたします。
今回の貴重なやり取りを通じて、漠然と感じてきた本論における自分の立ち位置が、よくわかりました。まことにありがとうございました。
まず本論の主旨というか価値観として、イギリス的な保守主義のへのシンパシーが根底にあるのだと思います。(これは近代的立憲君主制を志向される皇室の方々の心持と、通底するように感じられます。)
偶然ではないと思いますが、大陸法型の国は基本的に立憲君主制度を廃止しているように思われます。ドイツは理想的な立憲君主国だったのに、第一次世界大戦の敗戦で退位させられてしまいました・・
残しているのはヨーロッパではイギリス以外には、ベルギー、オランダ、デンマーク、スエーデン、ノルウェーなどです。立憲君主制は、英連邦内にある、オーストラリア、ジャマイカ、ニュージランド、パプアニューギニア、などの15ヶ国が採用、エリザベス女王を戴いています。
それ以外に、アジアも立憲君主制度を残している国であり、マレーシア、タイ、カンボジア、トンガなどがそうですね・・・王国は軍事クーデターを招きやすく、元首制に移行しがちなものですが(たとえばエチオピアのハイレ・セラシエ1世がそうでしたね。)
こうしたアジアの国は温和・従順な国民性からなのか、よほど君主が優れていたためか、存続ができたのですね・・・
しかし正直にいえばそれだけではありません。筆者は専門的に法律を勉強しておらず、一方経済の世界での法変化には敏感だったこと、またおそらく昨今冷戦終了後の世界状況の変化(グローバル化・軍事革命など)の影響を受けて、相当慣習法的なスタンスをとったのだとも自己分析しました。
そのスタンスはかえないとして(おそらくパリ不戦条約の解釈も・・)しかし、当初ご指摘の点につきましてよく考えて訂正いたします。
まことにありがとうございました。
もうひとつ考えたことをばらばら書きますと、誤った法源のひとつに宗教というものがあるのではないか?というのも宗教が法源ですと(とりわけそれが一神教の場合)異なった宗教間では極端な非寛容が生じ、国民国家が形成できなかったり、国家間紛争が耐えない状態になったように思います。
「近代」はその過ちとの戦いであったのではないか。つまり法源を神から切り離し、自らの慣習制度に基づくか、あるいは人類の理念に基づくか。いずれにせよ人間自ら(あるいはその意思によって形成された近代国家)を法源にする思想です。その発想に基づかないと、理知的・寛容・互恵的な国際法の形成は、困難を極めると予想されます。
各国についてちょっと考えますと・・・
日本の場合、長いこと宗教は世俗化しており政治権力との距離がありましたが、近代化を進めるときに身分制度を超えた国民の求心力が必要なことを明治の元勲らはよく理解しており、彼らの手によって天皇を教祖とする「国家神道」が産み出されました。
ドイツの場合ですが、私の理解では宗教戦争の弊害が大きすぎたこと。またドイツのプロテスタンティズムはあまりに原則的・理知的で農民の心をゲットできなかった。ビスマルクほどの大政治家ならば、その求心力を愛国として利用できたわけですが、その後はつねに心の真空地帯が生じていたように思います。これは、ナチスもそうですし、今のドイツの環境運動などをみても感じられる点です。
国家社会主義は、これはナチスドイツや共産国家が典型ですが、それ自体宗教的たらざるを得ない(権力の恣意による法運営を可能にするために強烈な心理的・物理的強制メカニズムが必要)ように思います。ロシアの場合、ロシア正教のベースである東方ローマ教会自体が、皇帝=教皇であったわけです。
この恣意性は経済発展に必要な自発的な合理的計算を空しくするため、計画経済時期は別としても、高度の経済発展はこれらの国家では起こりにくいといえると思います。
(典型例は北朝鮮:これからの中国が見ものですが、おそらく多制度による連邦を目指すのだと思いますし、それは国家の分裂につながりかねないことだとも思われます)
このように考えると・・・・・今、宗教者を法学者に戴くイスラム教国家と私たちはどう折り合いをつけるのか。
一方逆に合理的近代的ではない原理主義的なキリスト教の影響が強い共和党右翼(ちなみに彼らの多くは、先日のジャワのツナミは神のたたりでありと信じており、ニューオリンズの今回のタイフーンの惨劇を、ゲイのせいにしているらしい・・)が支配するかもしれない「有史以来の最強軍事国家アメリカ」をどう考えるのか。
私たちがいまいるポスト近代は、宗教の逆襲=原理主義=狂信の時代なのかもしれない・・・という恐ろしさを感じております。
boldさま
夏前にこちらにお邪魔していた平山洋です。しばらくぶりに来てみたら、すごいことになっていますねえ。新たな論客「偏屈な元法学徒」さんの参加で、ますます議論が深まっています。勉強させていただいております。
ところで、『福沢諭吉の真実』の感想をブログに取り上げていただいた関係で、Apemanさんの「Apes!Not Monkeys!」中「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」のコメント欄および同ブログ掲示板で、N.B.さんという方と、「日清戦争は日本にとって正当化可能か」について、ちょっとしたやりとりをしております。ご興味がおありでしたらご一覧ください。
お久しぶりです。
探して面白いので早速書き込んでしまいました・・
9月18日日曜日のテレビ サンデープロジェクトでの桜井よし子さんの“小泉総理靖国神社参拝に賛成”の発言 その理由に驚き拙文を書きました 大筋で間違いあるといけないと思いネットで調べて結果 貴方様の論文を見つけました 市井の年金生活者ですが筋は違えてないようで 大感激です 野に逸材賢人あり 貴方様の見識を熟読玩味させていただいておりま 益々のご発展を祈ります
我々は『恥』を知り『ケジメ』を付けられる民族と自負している。A級戦犯のシンボルである、東條英機だけは『神』にすべきではない。彼自身が自らが国家に対して犯した『罪は七度生まれ変わっても償えない』と認めているのだから。靖国の神社の中で、彼はあのヒステリックな声で、『一億玉砕』を叫ぶ前に彼の判断ミスと失政で命を落とした数百万の英霊から袋たたきに逢っているだろう。彼の孫の東條由布子さん!あなた方は一日も早く『東條神社』でも造営されるべきです。
こんにちは
吉田さんの靖国総理参拝反対のご意見よく理解できました。要するにA級戦犯が合祀されているからとのことですね。
私はB級戦犯が合祀されているので靖国総理参拝に多少の疑問を持っていますが、まあ、考えてみればいちいち戦争犯罪者を網目にかけてふるい落とすことより、戦争で命を亡くした軍人軍属等を靖国に無条件に祀ることの方が意義あると思っています。
神道では人は死ぬと命(みこと)になります。ですから、仏教のような戒名はなく、例えば三島由紀夫命(みしまゆきおのみこと)となります。それを神と認識します。ですから、多分、神道での神はキリスト教の神のように絶対者ではなく、仏教で言う人は死んだら仏になるような神なのだろうと思います。
そうであればこそ、靖国には誰もが参拝できるのだろうと思います。いわゆる無縁仏の前では普通の日本人は心の中では手を合わせるものだと思います。この無縁仏は悪者であったかも知れないから手を合わせるのはやめようという日本人は普通はいないと思います。
結局、総理大臣のみならず三権の長は靖国神社に参拝するのが当たり前のことではないかと私は考えます。天皇もA級戦犯が合祀されてからも参拝してはいますね(自らもあるし、使いを出しての参拝もある)。もし、東條が合祀されたので参拝を中止したのだとしたら、自らの戦争責任を判然と表し、天皇職を自ら退位すべきだっだと私は思います。
・靖国神社は明治国家(江戸時代人)が作った日本文化の結晶でもあります。
・A級戦犯は果たして戦犯なのか、戦争に至った真の原因はむしろ連合国側にあるのかも知れない。
やはりこの二つの事を歴史的に十分に検討しないと靖国への評価は十分なものにならないと思います。
allien-tanukiさん
>天皇もA級戦犯が合祀されてからも参拝してはいますね
いつのことか教えてください。
1945(昭和20年)8月20日
1952(昭和27年)10月16日 天皇・皇后両陛下
1954(昭和29年)10月19日 天皇・皇后両陛下 創立85周年
1957(昭和32年)4月23日 天皇・皇后両陛下
1959(昭和34年)4月8日 天皇・皇后両陛下 創立90周年
1965(昭和40年)10月19日 天皇陛下 臨時大祭
1969(昭和44年)10月19日 天皇・皇后両陛下 創立100周年
1975(昭和50年)11月21日 天皇・皇后両陛下 終戦30周年
1986(昭和61年)8月15日 公式参拝見送り
>東條が合祀されたので参拝を中止したのだとしたら
前の意見と合わせるとおっしゃることが意味不明です。
>天皇職を自ら退位すべきだっだ
そうする機会があったとすれば、終戦直後だと思います。
吉田様の上の質問は私tabitoに対するものと思われますので返答させていただきます。
>天皇もA級戦犯が合祀されてからも参拝してはいますね
いつのことか教えてください。
私の文章が言葉足らずで誤解を与えました。すみませんでした。
私が言いたいことを改めて説明します。天皇はA級戦犯合祀後も靖国神社を社頭ではないかも知れませんが参拝しているはずです。おそらく皇居にて全霊を傾けて慰霊を行っていたのだろうと推測します。そうであればこそ勅使をも遣うのだろうと思います。
>東條が合祀されたので参拝を中止したのだとしたら
前の意見と合わせるとおっしゃることが意味不明です。
東條が合祀されたので参拝を中止したのではないかとの論旨は吉田様の論旨です。私は、もし天皇がそのような心情であったのならば、東條は天皇の臣英機であったのだから、東條の瑕疵は自分の瑕疵でもあるとの精神で自らの瑕疵(戦争責任)を表し退位すべきではなかったかと思うのです。
>天皇職を自ら退位すべきだっだ
そうする機会があったとすれば、終戦直後だと思います。
退位すべきだったかも知れませんね。しかし、日本の立場も連合軍に天皇自ら全霊を込めて説明(抗弁)すべきであったと思います。また、ソ連軍によるシベリアへの日本軍捕虜連行強制労働に対してなど天皇こそ強い抗議を行うべきであったと思います。
いづれにせよ天皇こそ靖国参拝は継続して続けるべきではなかったかと残念でなりません。私は継続できなかった原因は三木総理の8月15日参拝以後に起こった政教分離に抵触する等のマスコミ報道が原因ではないかと認識します。
私の推測ですが、といいますのも、ご本人の発言はのこっていないので。天皇歴代側近、侍従長たちに日記を読む限りでは、天皇の参拝中止はご本人(および側近)の強い意思だと思われます。
本論にあるように、特に戦死者でもないA級戦犯の合祀(それまでの靖国神社の正統な合祀の基準に反している)には、天皇家は反対のお気持ちをもたれていたと存じます。
天皇家が参拝できないと判断されたのは、戦当時、天皇の戦争責任の追求中止とA級戦犯の認定が、国際政治的に不可分であったことを、誰よりも認識しているからに他ならなかったからでしょう。それは報道された、されないの問題ではないように思います。
また、昨今の報道では厚生省におけるA級戦犯の合祀基準の変更は、官僚の上司にはつたえられず、旧軍出身者の現場が勝手におこなったことのようです。
>昨今の報道では厚生省におけるA級戦犯の合祀基準の変更は、官僚の上司にはつたえられず、旧軍出身者の現場が勝手におこなったことのようです。
吉田様の本論(他のサイトからのコピーも含む)によりその辺の事情を初めて知ったのですが、その事は確かに問題ですね。しかし、キャリア上司といっても、もし天下り先をいかにして作るか(キャリアは政府系金融機関をいくつも作った)が彼らにとっては重要な問題でこそあるようなキャリア上司であったのならばそもそも不要な存在ではないでしょうか。いつまでたっても靖国神社に送るべき名票は表れなかったことが予想できます(いわゆる拉致事件も120万人の国民の署名があって初めて小渕総理が動いた)。
ですから、その問題を離れてA級戦犯の合祀は私は妥当な行為だと思います。そもそも靖国神社は天皇に誰何を得る必要もないはずです。
彼らに対し日本人により行われなければならなかった戦争責任の追及と靖国合祀は別な範疇の行為だと私は思います。
いづれにしても、もし、吉田様の推測するように東條等のA級戦犯合祀が天皇の意に反して行われた事により、天皇自ら以降の靖国参拝中止を決定したのだとすれば、なんとも嘆かわしい事です。
天皇とはなにをさておいても全霊を込めて、できれば昇殿のうえ神道形式で参拝して戴く存在であると認識していました。ですから、天皇は近く皇居にてご参拝を戴いているものと想像するのです。
そうでなければ、天皇はアメリカの何番目かの州のジャパン族の酋長と変わりがない存在ではないですか。
↑天皇に誰何ではなく、天皇に裁下の誤りです。訂正します。
tabitoさん
端的にお聞きしますが。
それでは、「226事件の首班らも靖国神社に合祀するべし」とお考えですか?
そのご質問は決起軍の指導者を意味しているのだとすれば、靖国神社には祀るべきではないと思います。
ところで、吉田様にお伺いしたい事があります。
山本五十六大将は真珠湾攻撃を計画実行し、また、ミッドウェー海戦においては壊滅的な被害をわが海軍にもたらしました。そして、彼が目指した早期講和を画策するどころか、連合艦隊司令長官という非常に高い位置にいたにもかかわらず、いとも簡単に敵戦闘機により撃墜死を得ました。従って彼は靖国神社に合祀されていると想像しますが、戦後、靖国を参拝した天皇はどんな気持ちで山本元帥の霊に対したと思われますか?
終戦まで連合艦隊司令長官として生き残っていたなら、やはり彼もA級戦犯として絞首刑になっていたと思われますか?
靖国神社は、天皇のための戦死者を祀る神社です。
したがって、山本長官はもちろん、靖国神社に祀られております。それに問題はまったくありません。
もし、彼が戦死しておらず生き残った場合ですが、その場合にA級戦犯になったかどうか、わかりませんが(その知名度かから、恐らくなったのではないかと思いますが)いずれにせよ、戦死者ではないので、靖国神社に祀られるべきではありません。
第二次世界大戦前には、靖国神社のその規則はきわめて明確であったのです。本論に書いたように大久保利通、また八甲田山行軍の死者などをみても、それらの扱いは明確です。
そうですね、国民に開かれた神社となることを靖国神社が目指すならば、合祀規定を誰にもわかるようにして欲しいと私は思います。しかし、天皇のための戦死者を祀る神社という表現には違和感を感じます。現在の靖国神社は天皇のための神社ではないと私は思います。また、天皇のために戦死した者のみの神社でもないと私は思います。
tabitoさま
靖国神社は、政教分離の今、国家と関係がありません。(だから国はA級戦犯についてどうのこうのいう立場にない、と発言しているとおりです)
一宗教法人である彼らが「天皇を頂くのか頂かないのか」を自ら決めればいいのです。第二次世界大戦以降天皇家と関係がなくなったのならば、そう宣言でもしたらいいと思います。
あなたや私がどう思うかと関係なく、まず「彼らがどう決めるのか」が大事なのではないですか?
調べてみましたが。
歴史的には靖国神社では、天皇家は格別の地位にいるようです。(「偕行」(特号・部外秘第805号、1941年、大江志乃夫「靖国神社」再引用)
「靖国神社は皇室礼賛の神社であり、皇族の戦没に対しては格別の配慮を為している。明治時代の北白川宮能久(よしひさ)親王、昭和に入っての北白川宮永久(ながひさ)王は最高級の祭神として祭られている」。
「『死して護国の鬼』となった戦没者達は、生前の階級に従って序列化される。霊璽簿(みたましろ)と呼ばれる帳簿に、死没日、出身地、その人の階級が書かれる。その後に勲何等、金賜勲章を貰っている場合にはその等級が記される。この帳簿全体で一つの命(みこと)となる。各個は英霊であるが、全体として『一命(みこと)』として扱われる」。
「天皇の靖国参拝の様子は次のようである。主賓として天皇が立っており、侍従長が侍る。そこへ宮司が玉串を持って侍従長に渡す。侍従長が受け取り、天皇に渡す。天皇は玉串を持ったまま礼拝することなく(親閲)祈念を凝らす。暫くして玉串を侍従長に渡す。それを宮司が受け取り玉串を捧げ礼拝する。こ間、天皇が礼拝することは一度も無い」。
なぜ靖国神社において遷座が難しいのか。
民主党の前原代表はA級戦犯の分祀を遷座によって行ったらと示唆しています。
通常の神社では御神体があり、鏡、石、木などが多いとされていますが、御神体が移動可能なものであれば、遷座は可能です。靖国の場合、御神体にかわるものは、霊璽簿(みたましろ)と呼ばれる帳簿であり、ここへの記帳がすなわち合祀ということだと思います。霊璽簿は一部の人だけを物理的に分割することができないので、記帳の取り消しと、新しいA級戦犯の霊璽簿(みたましろ)の作成が必要になりますが、信仰が形骸化した靖国神社のみでは、その新しい形式の創作が難しいのだと思います。
吉田様には数々の知識をご教授いただきありがたく存じております。
さて、靖国神社も戦後の新しい日本に存在することになったわけですが、当然、天皇家の立場もそれまでの決して侵すべからず的な存在ではなくなったと認識します。先のコメントにあったような天皇の靖国参拝様式は戦後行われてないと想像します。靖国の御霊に対していわゆるお辞儀(室内礼式での敬礼)くらいは天皇さんもされていただいていると想像するのですがいかがなものでしょうか。そうでなければ最早多くの国民は天皇に対して尊敬の念もうせるのではないかと想像します。
事実のみにしか、返答ができませんが・・・
戦後の参拝においては先だって指摘したような方式にての参拝であったようです。
「ご想像」に対してのご返答は極めて難しいので、是非ご主張の事実の根拠を頂き、ご質問をお願いします。
個人的には・・・abitoサンのご意見は戦後敗戦責任において天皇制度が廃止されていれば、極めて真っ当であったように思います)
吉田様、確か雑誌正論9月号に、中曽根元首相のコメントが掲載されていました。天皇と同じようにお辞儀(一礼)をするだけ・・・・と。彼が昭和60年8月15日に靖国神社を参拝したときの回想でそのようなことを言っていました。ですから、天皇は戦後は一礼をもって靖国の御霊に参拝していたと思うのです。
吉田さんはじめまして。阿部重夫氏のブログで貴説のことを知り拝読いたしました。よく資料を駆使され論旨を深められておられると思います。また平山洋氏や元法学徒の方とのやりとりでさらに論議が深まり勉強させていただきました。
当方は単純に中国や韓国の特定アジア国の干渉に屈しないためにも参拝は必要だと思うものであり、靖国のA級戦犯合祀が適法かどうかという点に関しては判らないところが多すぎると思っています。
ただ一点、吉田さんがA級戦犯合祀を戦後の統帥権干犯とみなす根拠は「靖国は天皇の意向にしたがうべき」ということであり、したがってそれを無視した松永宮司の行為を非難されるわけですが、その論旨にどうもあいまいなところが感じられるのはつぎのような点でしょうか:
1. まず大前提として「統帥権」を有するのは明治憲法の規定による天皇であり、現憲法下の天皇は国民の象徴というはなはだ曖昧な存在であり、いかなる権限の行使も付与されておらず、政治行為も意見を述べることすら許されていない存在です。そもそも統帥権がないところにいったいどのようにして干犯行為が成立し得るのでしょうか?
2. 上記のごとき存在である天皇の状況から、天皇自身がどのような見解を抱いているか明確な論拠が存在しません。したがって果たして靖国のA級合祀が天皇の意にそむいているかどうかというキメ手がありません。ここのところが明確にならないと靖国の非は糾弾できないでしょう。また天皇の参拝とりやめを自らの意思によるものと決め付けてしまっておられるようですが、これは三木武雄が「私人として参拝」という見解を口にしてからできなくなった、というのが定説のようです。
3. 天皇が国家神道の祭主であるか、現憲法で規定された国事行為をおこなうのみで政治行為は一切できない存在であるのか、あるいはそのいずれに重きをおいているのか、そこのところが明確にならないと「天皇の意思と靖国の行為」というテーマは追求できないのではないかと思われるのですがいかがでしょうか。
それから、これは余談ですが吉田さんはApeman氏のブログで靖国問題はA級戦犯を合祀したから、という趣旨のことを書き込んでおられたようですが、これは本件を政争の具にするよう煽った日本のマスコミとそれを利用しようと企図した中国および韓国に因があると考えます。
末尾ながら平山氏コメントNo.23の3)の③はきわめて重要な指摘であると思われます。
明日のテレ朝ご出演を楽しみにしております。草々
樽人さま
個人的には首相は個人的資格にて参拝すべき(してほしい)、と思っております。
また本論文が冒頭に断っているように、この件については他国に指摘されるまでもなく、それを聞くまでもなく、わが国の本来あるべき姿、そして自国の歴史とどう真摯(しんし)に向き合うか、をまず考えるべきであり、その姿勢によりはじめて他国の歴史認識を正しく批判できる、という主旨で書いております。
一方。
天皇は、本神社の神主さんです。
神主が神社にいかないという意思決定を、神主以外の誰が強制できるものなのか。マッカーサーはもうわが国どころかあの世にいっていますし、GHQもなく、国(官僚機構)や国民もむしろ合祀を歓迎したのではないですか?
天皇の内面を知ることはもはや不可能と思います。あとは「「このとしのこの日にもまた靖国のみやしろのことうれひはふかし」という御歌をどう詠むかによるのではないでしょうか・・私はこの問題は天皇の心の枢軸であったと確信しています。
吉田さんレス有難うございます。
いただきましたコメントを拝見しますと当方が抱いております感慨とほとんど同じように思われ、これではもう論をなすことができないではないかと思われました(笑)。事実、貴論文ではじめて教えていただいたこと、思考を深めることができたところも多々あったのでした。
そこで当方の現在思っておりますところを再度整理いたしますと(前回書きました点は維持しつつも)仰せのとおり「A級戦犯者の法的地位や東京裁判の正当性に関しては棚上げするとしても、戦闘で死亡したのではない人間を靖国に合祀するには疑義がある」というところだけでも吉田説は成立するのではないかと思いますがいかがでしょうか? 当方も(例えば東郷茂徳を戦犯とするのははげしく反対しますが)東條秀樹を靖国に祀らねばならぬとする立論には賛同する理由がなにひとつありません(平山説の「その立場の職務を尽くしただけ」とする見解には賛同しますが)。それでは何故参拝を是とするかといえば、それは「合祀に疑義のある数十人のために戦死者の大多数が祀られている神社の参拝を中止する訳にはいかない」とするものです。こういう論理で双方めでたしめでたしとする訳にはいかないでしょうか(笑)。
ところで東京裁判の弁護人であった島内龍起という方が日本評論社から「東京裁判」という本を出されています。重光の手記とはまた異なる記述があってご参考になると思います。もし時間いただければ当方も再度勉強しつつ肝要と思える箇所をUPさせていただければと思います(元法学徒さんの見解もお聞きしたいこともありますし)。
追記:今朝になって「TVでは言い尽くせないであろうこと」の文を読ませていただきました。あの本番の田原氏の司会ではさぞかしフラストレーションがおたまりになったことではないかとお察しいたします。なにせ一般の一視聴者である当方とてそうでありますから。当事者としてはまた異なる感慨もおありかも知れませんが、ご多忙の後のコメント再度どうもありがとうございました。草々
亡くなられた江藤淳先生の本の中で、ポツダム宣言の受諾は「日本の無条件降伏」を意味するのではないと述べられていたのを覚えています。
確かに英文ではunconditional surrenderをするのは日本軍隊(armed forces)であって、それを含む条件(Following are our terms)を日本国が呑んだわけです。ポツダム宣言の条件はさして特殊でもなんでもありません。
江藤先生が問題としたのは、戦後の占領政策として行われたアメリカの言論制限、プロパガンダがどう我々の歴史認識に影響しているのかということでした。
ポツダム宣言を無条件降伏と思っているのはその影響ではないんでしょうか。
条件降伏というのは通常(というか第一次世界大戦までの国際法では)、過酷な領土割譲と賠償金を請求するものでした。その結果が再び大惨事につながったので、その風習は終わってしまいました。その結果、日本は領土割譲もされず(どさくさまぎれに強奪されたのは若干あるが、北方四島など)、賠償金もほんのちょっとだけでした。
さて。私は日本は無条件降伏をしたと思います。
それについて「軍隊は無条件降伏したが国家はしていない」などと詭弁を弄する人がいますが、それはまさに戦後平和主義の間に現れた虚構の勘違いと存じます。
日本側の最大唯一の条件は国体護持(天皇制の継続)でしたがそれは連合軍に保障されませんでした。
それでも降伏をすると昭和天皇がおっしゃるので、宮中クーデターが起きた(昭和天皇を廃位、別の候補者を擁立しようとしたことは皆さんご存知でしょう・・・)
マッカーサーは当初天皇制を廃止することを考えておりまた、中国とソ連は強烈にそれを主張しました。
しかし、日本の共産化を防ぎたいこと、また天皇の態度があまりに真摯で正直であったことにマッカーサーは心打たれました。
なによりの世界史の奇跡は、戦後の天皇巡幸が国民的熱狂を起こしたことです。
「陛下の全国巡幸は昭和二十一~二十二、二十四、二十八~二十九年と行われた。その時期に二回の中断がある。巡幸の中断は昭和二十三年と、昭和二十五~二十七年である。
陛下はこの全国巡幸を大変熱心に行われた。昭和二十一年二月から神奈川県下と都内と都下、十月名古屋。二十二年には関西と東北と北陸と中国地方に巡幸された。」
敗戦国の国王が最も警戒すべきことは暗殺です。「世界の歴史を見れば、戦争に完敗した国の「王」は亡命または自殺または人知れず不運な人生を終え、「王家」は途絶える、それが常識である。」
http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/sonota/shouwa-tennou.html
それがゲリラが一人もあらわれるどころか暗殺者すら登場しませんでした・・・(共産党員は何をしていたのでしょう)
天皇制を廃止すれば日本国は二等国家になり、共産主義化も防げない。結局GHQの判断は戦後、天皇と国民との強烈な絆をしめすことにより、結果ある種の国体護持(天皇制の堅持)におちついた、のではないでしょうか。
>>その結果が再び大惨事につながったので、その風習は終わってしまいました。
ドイツが失った領土について考えるとこの解釈はかなり疑問です。戦後の現ポーランド領でドイツ人がいかなる扱いを受けたか知っていますか。おっしゃる通り日本の領土割譲がすくなてすみました。このような好条件(いいですか、条件ですよ)で降伏できたことがまさに、「無条件降伏」ではなかったことを示していると考えているんです。それについて理由はどう考えているんでしょうか。
無条件降伏ではないというあなたの自説があろうであることはよく理解できます。しかしその立論を私に求めず、どうぞあなたがサイトを立ち上げてきっちりと立論ください。
ドイツの場合、完全にナチス政権が崩壊し領土分割や賠償金交渉を行う当事者能力を失いました。ドイツはアメリカ、ロシアの軍政下に入りました。権力の空白地帯が生じますからポーランド他が現地政府の管理下に入ることはやむを得ません。
一方日本では官僚機構他が温存され統治能力も保持いたしました。この事実をもって無条件ではない、という強がりがありますが、それはアメリカの意思ひとつで決まること。統治コストが安くて効率的なら今の政府を使おうという先方の意思決定がすべてだったということだと私は思います。嘆願はできても、交渉はできない。
その状態を私は「無条件」と呼ぶと思いますが、それと違う立論をきちんとされるのも、それなりに意義深いことと存じます。
A級戦犯合祀が、天皇の靖国参拝の障害になってるというのは、一つの説に過ぎないんじゃないですか?
本当に天皇がそう言ったという裏づけはありますか?
ポツダム宣言には「われらの条件はかくの如し・・・」と、条件が書いてあるのだから、有条件降伏であり、無条件降伏とは後付け。
「軍は無条件に撤退」を拡大解釈してるだけでしょ。
私の旧ブログにTBいただきありがとうございました。旧ブログは、運営先の都合で勝手にパスワードを書き換えられております。
よって、新しいブログのほうに旧記事をコピーしTBさせて頂きました。
靖国問題は、感情論が炸裂し、ネットを中心に不毛な論争が行われております。
私もA級戦犯の合祀には反対です。
自分が靖国の英霊であったなら、兵士に無責任な戦争を強い、多大の犠牲をもたらした張本人と共に祀られることこそ、不本意なことはないでしょう。
吉田さんへ
私は吉田様が本論で述べられていることに対して大筋で賛辞を送るものですが、敢えてこの質問をしたいと思います。
「B・C級戦犯については、どうした方がよいとお考えですか?」
本論は前半では東京裁判に関する法解釈、後半ではA級戦犯合祀へと至る「靖国イデオロギー」と本神社の神主である「天皇の意思」というところに重点をおいて述べられていると思います。
私も東京裁判は国際法上有効。日本は講和条約によって承認の義務を負っていると考えますが、そうなると問題はA級戦犯にとどまらなくなります(もっともB・C級戦犯の場合、帰国後でなく、戦地で裁かれたもの多数ですが)。
現在、問題の焦点がA級戦犯のみに当たっているのは外交問題になっているからですが、靖国を純粋に「戦死者を祀る社」とするには、論理上B・C級の分祀も行わなければならなくなります。ただその場合、日本の世論動向を考えると実現性は確実に落ちます。
従ってここでは、次の2点について質問いたします。
1.靖国問題をあくまで日本の自発的戦後処理の問題として、法解釈も含め、B・C級も含めて抜本的にあり方を変えたほうがよいのか
2.それとも「政治決着」として、「戦死者の神社」という定義としては曖昧ではあるが、A級合祀を改めることでよしとするのか、 です。
なお時間があれば答えていただきたいのは、本論では靖国神社「神主」としての天皇の意思の問題に多くを割いていますが、現行憲法の枠内において、「神主」としての天皇と象徴天皇とのあいだに「政教分離」の問題があるとお考えでしょうか?
また、「神主」としての天皇は「公人」ではなく「個人」として行っているのでしょうか?
PENさま
素晴らしい質問ですね。調べずに書くので後で訂正させていただくかもしれません。
原則的にはBC級戦犯の死刑者も分祀すべきだと思います。このことは次の中国、韓国の嫌がらせの手段にもなりえる可能性があります。
ただしすでに合祀されて数十年の時間がたっていること、また1000人近くにものぼることを考えれば、政治的に一考の余地も大いにあると思います。しばらくして様子を見ながらということもありえると思います。
彼らは東郷神社近くに「昭和受難者神社」をつくりそこに遷座願うのはどうでしょうか。天皇は靖国参拝に復帰されると思います。昭和受難者神社設立の場合、私は少なくとも寸志を出し、また平成の国難を救った御礼により、これを機会におまいりに行くと思います。
「神主」としての天皇と象徴天皇とのあいだの「政教分離」の問題。私の知る限り天皇には信教の自由があります。宮中祭祀は、家族の私的生活のなかで天皇個人の意思のもと(建前上は)なわれています。その発露が「我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず,憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に違反するものではない」場合には認められるべき、という立場でおります。
吉田さんへ
お答えありがとうございます。
吉田様の文章には日本人本来が持つ優しさを感じます。
いただいたお答えに関してまだ書きたいことがあるのですが、長文になりそうですのでもう暫くお待ちください。
吉田さんへ
ながらくお待たせ致しました。急に忙しくなってしまい、前回申し上げたような長文で書き表すことはできませんが、具体的にいうと「国民感情」なるものについて考えています。
本文にある昭和28年の議決も、中国が首相の靖国参拝に抗議するときも、それぞれ「国民感情」が理由として持ち出されますが、私にはこれが論理的整合性において説得力を持つものだとは思われません。
いまだに昭和28年の決議をもって、全国民的に東京裁判を認めていなかった証拠だということを言う人がいますが、法律的に見れば講和条約11条の規定に従って戦犯の全面赦免を認めるよう関係各国に働きかけてほしいと政府に要求しているものなので、前提として講和条約の諸規定や東京裁判を認めていることになります。(政府は裁判を認めています)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/09.html 理よりも情(主観)で考えてしまうのが、東洋文明の弱点ではないかということを最近少し考えています。その上での前回の質問でした。
本文先頭にある小沢氏の提言ですが、彼は2004年の9月に唐家センと靖国問題で話し合ったときの手応えから、「政治解決」でいけると踏んでいるようです。
「政治解決」でもよいのですが、政治解決とは双方の感情的な面で折り合いをつけるということに過ぎません。感情はどこまで行っても感情です。
むしろ、戦後からは日本の国是が変わったということを論理的に示したほうが、真の意味での戦後処理になるでしょうし、「自発的」解決ということにもなるだろうと思うのですが。(なぜなら、政治解決という「妥協案」は相手がいて初めて成り立つものだからです)
「外圧」に屈するような形で靖国問題を解決するのはよくないという考え方(よって、A級戦犯は戦死者ではないという考え方で行こうという考え)は、この点で「ねじれ」をきたしているのかもしれません。
宗教という話題がその後の討論の中で登場してきましたのでさらに申し上げますと、日本の保守主義というものが変わっていかなければならない時期に来ているのかなというのを漠然と感じました。
本文でも詳しく説明されているように、いままでの保守主義の根幹にはやはり天皇があって、天皇の「忠臣」であることを善しとする単純明快な論理があったように思います。天皇は現人神であったわけです。
ところが靖国のような問題では、その「忠臣」を祀ることで問題が起きてしまう。その矛盾を「国民感情」のような理由で、何とかしのいできたのが日本の戦後60年であったということもできると思いますが、これからはもっと多様性を持つといいますか、そう単純な論理ではどうにも物事を導いていけなくなると思います。
「人間宣言」に始まる戦後の新体制を積極的に見つめて論理を形成する必要を申し述べ、今日は終わりにしたいと思います。特に質問形態は取りませんでしたが、思うところがあればご返事いただきたいと思います。
おっしゃったことはほぼ私の意見に近いと思います。
問題の所存はあきらかですが、しかしその「解決」が難しいです。
感情より理性を働かせたいところですが、民主主義国家は、選挙制度と政治を通じて国民感情ともろに、つながっているところがあります。
この国民感情のなかに、まともなもの(理性が拮抗しうる)と、まともでないもの(感情それのみにより押し流される)があるかと思います。
感情の多くをなすのは、諸外国の昨今の流血を見ても「宗教」が基盤にあることが多く、欧米の場合、2000年続いたキリスト教をもって、社会の安定装置にする場合が多いようです。
日本の場合、明治維新以降、国家神道ー天皇教をもって、近代化を進める国民感情としたものが、敗戦と人間宣言で100%ひっくり返りましたのはご指摘のとおり・・・
戦後日本に安定した宗教的感情がはたしてあったのか(絶対平和主義?携帯文化?親米ないし反米?)と不安に思います。その不安が、わが国を高度経済成長・消費主義国家たらしめたのかもしれません。
本論が天皇を中核に置くのは、私はまだ国民感情のよりどころの中核に天皇制があるから(日本国憲法の第一条でもある)と考えているからです。
それが天皇教的・国家神道的なことがらではなく、戦前の天皇機関説がそうであったように、立憲君主制度をもって、より危険な国粋主義、上記でいえば「平泉思想の平成における再現」を防ぎたい、それには、反天皇とか、反保守を謳っているのでは全然だめなのではないかという、ある種の保守主義刷新の考えに基づくものです。
日本の近代化ということに立ち戻って考えたいと思います。
1868年という割合早い時期に明治維新を成し遂げたことで、我々日本人は多少有頂天になってきた気が致します。
韓国はとうとう近代化を成し遂げる前に日本に併合されましたし、中国は1911年でやっと辛亥革命、その後も軍閥が割拠して国の形を成しませんでした。
しかし私たち日本は、問題を解決するために便利なツールを持っていたことを忘れるべきではないと思います。
そのツールとは権力の分裂状態、つまり朝廷と幕藩体制とが両立するという矛盾です。
倒幕を果たしたということで近代化への代価を払ったというのが一般的な認識ですが、絶対的封建制度(唯一無二の王権をいただく)中国や朝鮮にとって、それをひっくり返すことは容易ではなかったのであります。
従って両雄(天皇と将軍)並び立つ日本では、片方を押すことで簡単に体制の刷新ができたのに対し、中国では時間が掛かりました。
その中国が今ここまで力を伸ばしてきたということは一つのテーマであると思います。
ただ両国の文明衝突を騒ぎ立てる前に、私は中国が本質的にその封建的弱点を克服したとは思っていません。
なぜなら前述したように「感情的」な文明をそのまま引きずっているからです。
その意味において、日本も中国も五十歩百歩だと言えます。
我が身を振り返れば、日本の近代化はその程度だということを述べました。
仰っている宗教的安定についてはわかりますが、宗教としての天皇制と国家制度としての天皇制は違うのではないでしょうか?
私は「忠臣」信仰が矛盾をきたしている以上、また「心情」的には武士道もありだと思いますが、実質上は(ライブドアや刺客に代表される小泉人気を見るに)社会を導いていく論理として「修身」的な天皇制が機能していない以上、そこに宗教的役割を期待すべきではないと思います。
ここで宗教的な論議をすべきではないと思いますが、求めるとすればむしろ「仏」のほうがいまの時代には合っています。
私は象徴天皇制支持の立場です。ただ戦前のような「皇国」思想ではもう導けない。
仰るとおり民主主義制度では「国民感情」がもろに出ますから、その解決は難しいですが、いま国は歴史上の一つの岐路に立たされているわけですから、それぞれに自覚を求めるよりほかにないという考えを述べました。
そのためにも新たな論理構築が必要となるわけです。
吉田様の心情は察します。ただ、更にその一歩前を行こうではありませんか!
他発的運動ではなく、自発的運動として。
>1868年という割合早い時期に明治維新を成し遂げたことで、我々日本人は多少有頂天になってきた気が致します。
この時代の軍事技術革新はめざましかったので、このときに成し遂げなければ、日本も他のアジアと同様、半植民地化されていたと思います。そうなれば、東西の平等は今ほど実現していなかった歴史のIFもあるように思いますが・・・
>その中国が今ここまで力を伸ばしてきたということは一つのテーマ
中国の場合、易姓革命の思想があり、個人の運動が大きな社会運動(カタストロフと再生)につながる社会ダイナミズムがあります。日本には確かにそのダイナミズムはありませんが、私はそれは日本の幸せと考えております。
>求めるとすればむしろ「仏」のほうがいまの時代には合っています。
日本における仏教は(特に戦国時代以降)、精神的に形骸化し、死における社会形式は提供するものの、社会をまとめる思想力は全く持っていないと思います。日本人の宗教は、社会集団そのものであり、相互コミュニケーション自体ではないかと思います。(それが日本の大いなる危険です)
>他発的運動ではなく、自発的運動として。
ごめんなさい。この意味がわかりません。PENさまの問題意識はなんとなくわかるのですが、であれば私にそれを求めるのではなく、自発的な考え方を自ら表現されるところから始まるように思います。
吉田さんへ
ご返事ありがとうございます。
ちょっと檄を飛ばしすぎたようですので、丁寧に書くようにします。「国民感情」についての論議でした。
吉田様から(1)明治期以降の国民感情(天皇教)の形成には、当時の近代化を推し進めるエネルギーと一体的なものがあったこと、(2)偏狭なナショナリズムを防ぐためにも社会の根幹的な宗教(精神)文化のようなものが必要になること、(3)そして今回は易姓革命がなかったのは日本にとってある種の幸せだとのご指摘がありました。
以上の3点については大枠で異論がありません。が、細かく見ていくといくつか問題が出てきます。
(1)なぜ天皇教が近代化を推し進めるエネルギーたりえたかというと、ひとえにそれまでの幕藩封建体制を覆す後ろ盾になりえたからです。お隣の中国や朝鮮を見れば、皇帝や国王を頂点とするガチガチの絶対王権というものを改めようと思ってもなかなか改まらなかったということをここでの例として出しました。その意味では、朝廷と幕府という両頭体制を持っていた日本というのは幸運で、中朝に比べれば比較的少ないエネルギーで時代の区切れ目における権力のシフトチェンジを成し遂げることができたと申し上げました。つまりは中朝ほどのガチガチの儒教体制ではなかったということです。
しかしながら「王政復古」という形で権力のシフトチェンジを行ったものの、それまでの征夷大将軍という特殊権力を排しただけでの王制作り、つまりは昔の大宝律令などを持ち出してきて、国を治めたのでは(省庁名などにはその名残りが残りましたが)近代化が成り行きませんから、結局は大日本帝国憲法という憲政を敷くことになります。
ここまではよくご存知の歴史だと思います。
明治期において、(幕藩体制の否定の上に成り立つ)帝政と「近代化の推進」というのは矛盾しなかったのですが、いま現在においてはその考え方と更なる近代化というのが時において衝突するということを申し述べました。靖国問題において見られるのがこれですが、つまりは「忠臣信仰の矛盾」と私が述べるもの、吉田様の仰られる「敗戦と人間宣言で100%ひっくり返ったもの」です。
(2)偏狭なナショナリズムを防ぐために精神的な文化の成熟が必要だというのは私も認めます。
ただ、それが天皇を中心とした「忠臣」的な道徳の育成ということではもう乗り切れないと思います。靖国問題の矛盾を見ていけば分かることなのですが、「忠臣」=善という単純な図式が成り立たないという、法的には吉田茂が講和条約に調印したときから始まった一つの新体制なのです。憲法は国内的な手続きで改正できるでしょうが、講和条約の内容を変えるというのはほぼ不可能だと思います。
私が国家神道に懐疑的なのは、それが天皇を中心とした単純な図式であるが故に、他国から見た場合かなり自己中心的な道徳構造(つまりは精神文化)を作ってしまうからです。「愛国」というと、あたかも国のために自分を捧げる崇高なものととらわれがちですが、角度を変えてみると自国を愛してくれる=素晴らしい・自国に対して文句を言う=ムカツク、という非常に子供じみた感情構造をしていることが分かります。
であるが故に精神的な成熟が求められているというのは私も認めるのですが、果たして国家神道的な道徳秩序が精神の成熟に寄与するかというとあまり寄与しないと思います。
また「神道」という一言で語られることの多い天皇ですが、ここまで私が述べたものは「儒教」そのものであるということを指摘いたします。
(3)易姓革命うんぬんの話がありましたので申し述べますが、私自身は前にも書いた通り「象徴天皇制」支持派です。
ただ、日本のよりよきナショナリズム、よりよき精神文化形成のためには天皇を唯一無二の存在として祭り上げるだけではもうだめなので、神道でいえばスサノオをも含めた神道、歴史で言えばいわゆる賊軍をも含めた歴史解釈、また縄文も弥生も大和も蝦夷も熊襲もみんな含めて日本だという幅の広い解釈、多様性をもって行かなければいけないと思います。
現に天皇もそのことをお分かりなのではないかと思います。本文に出てきた昭和天皇の靖国参拝拒否の話もそうですし、今上天皇の憲法の規定に従うという発言もそう思われます。緩やかな日本国民統合の象徴という現在の規定の方がより゛らしい"、と思います。
最後に仏教の話が出ましたので申し上げますが、歴史上における日本仏教の低落はともかくとして、そもそも世界にこれだけの広がりを持っていった「仏性」というものはやはり人類普遍の何かを持っているのだと思います。
社会の安定装置としてのキリスト教の話が出てきたので敢えて出した話なのですが、精神文明に何らかの安定性、特にこれだけ国際化した社会の中で求めるならばやはり国際的なものの方が適していると思います。日本の美徳というのもいいのですが、(よく武士道について言われるように)それをもって理解できない人たちに対したり、外国にその価値観を押し付けていくようになると「八紘一字」的なものになっていく恐れがあります。
「廃仏棄却」というのがあったのですが、仏教と神道というのは価値観的にそれほど矛盾しません。また歴史上は天皇制とも矛盾しませんでした。
と、まあこれは個々の信仰の自由に付随する話ですが…。
(P.S)
「他発的でなく自発的として」というのは、自省がなければ何事も前へ進んで行かないということです。
確かに外圧はありますが、問題を自分のものとしなければ前へは進んで行かないと、そういうことです。
幕末、黒船というのは外圧でしたが、問題を自分のこととして変革を成し遂げたのは日本人自身でした。
いまの靖国問題の場合、問題の根本は日本が講和条約の11条を受け入れた時点で定まっていたことなのに、国民も政府答弁もなるべき刺激の強いものは避け、問題をはぐらかしつづけてきたということでした。
ですので、中国・韓国が問題なのではありません。日本が戦後新体制の中で国際社会に承認した自らの国家の枠組みというものをどう捉え、どう自己変革していくかというところにあります。私は「忠臣」信仰が靖国問題で破綻をきたしている以上、天皇を唯一無二の存在として祭り上げるやり方に社会の安寧を求めるべきではないと思います。確かに、立憲君主制というのには一理あります。しかしそれにともなって吉田様が望まない部類のナショナリズムも高揚するでしょう。
それより更に深刻なのは、ロジックに従って思考するという力を日本国民が失っていくことです。いま必要なのは心の慰めではないのです。物事を頭の中でどう解いていくかという思考力なのです。これは血を見ずに(戊辰戦争等はありましたが)近代化を成し遂げた日本が更に先を行くために超えなければいけないハードル、定めなのです。(靖国の何が問題なのかわからない人の如何に多いことか)
ちなみに、儒教とは「情」で思考する学問です。君臣の間柄も親子の間柄も基本的には「情」によって仲立ちされる間柄です。
しかし東洋人に欠如してきたのは「理」なのです。
(中国人も「理」で反日しているのではなく、「情」で反日しています)
PENさんへ
>いまの靖国問題の場合、問題の根本は日本が講和条約の11条を受け入れた時点で定まってい
第11条は、日本国が受刑者の刑の執行の委託を受けただけなんですよ。
日本国が連合国に代わって受刑者の「刑を執行する」ために「受諾」という行為が必要なんです。
東京裁判の被告人は、”個人”で、日本国じゃありませんから。
いや、だからそこが問題なんです。
この問題は日本が「裁判」そのものを受け入れたという考え方と、受け入れたのは「刑の執行」だけだという考え方と二派あるのですが、
日本政府は「裁判」を受け入れたという立場です。
これは首相の靖国公式参拝が問題となったときに、公式参拝に関する政府の基本姿勢を示すQ&Aの形で外務省のホームページについ数日前まであったのですが、(前回掲載したアドレス)なぜかここ数日の間にホームページが模様替えされて見当たらなくなりました。
サンフランシスコ平和条約についてのQの欄で、政府は「裁判」そのものを受け入れていて東京裁判について論評する立場にないと考えていると明記されていました。
詳しくはこちらの資料をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
>PENさんへ
[001/001] 12 - 衆 - 平和条約及び日米安全保… - 2号
昭和26年10月17日 006/7
[006]西村熊雄 條約局長
第十一條は戦犯に関する規定であります。
戦犯に関しましては、
平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、
戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞は
釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。
サンフランシスコ平和条約が締結されたのは、昭和26(1951)年9月8日でして、その後の西村条約局長の国会答弁なんです。
この時は、まだ占領下でして、この答弁に関してGHQから抗議が来たということはないんです。
平和条約の締結・発効によって、交戦法規に違反する者の責任を免除するアムネスティ条項(国際法上の大赦)というのが、
1648年のウエストファリア平和条約以来の国際慣習法上の規則となっているんです。
この国際慣習があるから、所謂A級戦犯であった重光葵が外務大臣になっても、
所謂A級戦犯であった賀屋興宣は法務大臣になるんですが、
条約締結国から抗議はなかったんです。
――サンフランシスコ平和条約の正しい解釈
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/sato.htm
吉田さんお久しぶりです。昨年6月20日から22日にかけてこちらにお邪魔していた平山洋です。
こちらの「コメント」欄もずいぶん長く続いているのですね。今日は、私のかつてのコメントに、私自身の誤解があったことが分かったので、それを訂正するために参りました。
それは「コメント30」2005/6/22の以下のくだりです。
「ただし、一般の戦争犯罪として軍法会議にかけられるべきだった、A級戦犯は存在します。つまり本当ならB級なのに、なぜかA級になっている人々がいるのです。例えば、支那事変当時現地の指揮官や幕僚であった、武藤章や松井石根らです。」
当時私が参照したどの資料にも、武藤章・松井石根ともにA級戦犯として刑死した、とあって、とくに「判決文」までは調べなかったのですが、実際の判決では、松井石根はA級相当の訴因では全て無罪となっています。彼は南京事件の首謀者として有罪となっているのですから、B級戦犯であった、ということです。
また、武藤章は、陸軍軍務局長として侵略の共同謀議に加わったかどで、A級としても有罪となっていたのでした。軍務局長が、その職責をまっとうしたことによって死刑になる、とはずいぶん奇妙なことですが、ともかく現地での行動によってA級とされたのではない、ということがはっきりしました。
松井石根は、A級戦犯として処刑されたのではないのですから、靖国神社から分祀されるべきA級戦犯刑死者でもない、ということになります。
平山先生お久しぶりです。
BC級であれば合祀はいいのか、という議論も参加者よりいただいております。
(私はA級戦犯のみ、昭和受難者神社を新設、遷座いただいた
らどうか?という意見です。)
少し論を進めて考察したい。
いまの日中間に横たわる対立の一番深いところに、東アジアの文化構造があると私は考えている。
それは何かと一言で言えば、「儒教」を中心とした国歌構造である。
儒教というのは「父権」(日本の場合は天皇)を中心としたピラミッド社会を形作る。
21世紀になるというこの時代に、いわゆる「上下関係」が敢然と日常生活の中にも影を落としているのは、この封建的な儒教制度によるものである。
儒教制度がなぜ国家間の融和を阻むかというと、基本的にこの制度は自国の君主に対する「忠誠」はおもんじるものの、「他国」の君主はどうでもよくなってしまうからである。
したがって一国主義のピラミッド社会はよくできるが、地域横断的なコミュニティーは出来上がっていかない。
ヨーロッパや東南アジアにおいて、地域横断的な組織ができているのに対し(EUやASEAN)、極東いわゆる東北アジアではこういう動きになっていかない一因がここにある。
それはいまに限ったことではなく昔からそうで、戦時中日本がこの地域に「大東亜共栄圏」を作ろうとしたときには、「日満華」友好による秩序でもって打ちたてようとしたが、本質的には日本の天皇制を主軸に据えた制度であったため(満州国皇帝の弟・溥傑と皇族の結婚など)、中国国民には他国の君主を頂点に戴く売国行為にしか見えず、それほど効果がなかった。
つまり儒教は排他的な構造を作り出すのである。
ここまで述べておかないと、私が上で述べたようなことがらの理解が得られないだろうから、追加として付け加えておく。
要は日本と中国・韓国との「生死観」が問題なのではなく、むしろ儒教的なものによる「相反効果」の方が本質的な問題なのである。
その意味において靖国は儒教的な「忠臣」思想に基づく施設であるから、そこから導き出される日中韓相互対立の構図は当然の帰結でもあるのである。
私が儒教的なものでない、より国際的な理念に地域外交の基準を求めるゆえんでもある。
bold1628に対するコメント
吉田様
分祀によって別の神社を建てても、もとの霊は靖国神社に残ってしまうのです。
確かに「霊璽簿」から名前を削除することは可能です。戦後の生存が確認されれば、今までもそのような手続きはなされてきました。そもそも霊が来なかったのですから、そうすることもできるのです。
しかし、死亡したのが確実である「A級戦犯分祀」については、靖国神社にも、新たな神社にも、どちらにも祀られていることになってしまいます。
分祀後、靖国神社へ外国人から、「靖国に東條の霊は今も祀られているのか」との問い合わせがあれば、「その通りです」と答えるしかないでしょう。
平山先生、神道に詳しくないので教えてください。
神体を移して遷座した場合、霊は元にも残ってしまうのですか?
日本の場合神殿が木造で耐久性が低いため、遷座により新しい神殿に霊性が移る、としている場合が多いのではないでしょうか?
あと私は靖国の場合、霊璽簿に、神体性が残っているのかと思っておりました。霊璽簿でないとする場合、ご神体はなにになるのでしょうか?
bold様
私も100%の専門家とは言いかねますが、知っているかぎりのことで、確実なことをお答えします。
問1「神体を移して遷座した場合、霊は元にも残ってしまうのですか?」
答1「後の問ともかかわりますが、霊璽簿自体が靖国神社の神体ではないのです。本殿にある御太刀と御鏡が神体とされています。霊璽簿はあくまで霊を神体に移すための伝達手段という扱いです。いったん移ってしまった霊は一つの命として一体化され、そこから特定の霊を除くのは不可能となります。」
問2「日本の場合神殿が木造で耐久性が低いため、遷座により新しい神殿に霊性が移る、としている場合が多いのではないでしょうか?」
答2「神殿はあくまで神体を守るための器です。伊勢神宮の場合は御鏡が神体で、その神体を20年ごとに新たな神殿に移すのです。」
問3「あと私は靖国の場合、霊璽簿に、神体性が残っているのかと思っておりました。霊璽簿でないとする場合、ご神体はなにになるのでしょうか?」
答3「答1の通りですが、霊璽簿を副神体とする見方もあります。拝殿・本殿・奉安殿は一直線上に並んでいるため、通常の拝殿からの参拝では、神体と副神体を同時に拝礼していることになります。」
つまり神体が分離可能なのか、ということが論点と思います。
御太刀と御鏡ならば分離は難しく、霊璽簿なら可能ということではないでしょうか。
いずれにせよ、遷座、分祀をして表面的・形的な分離がされ、しかしその実、霊の合一性は保たれているとある日本人達(天皇家がその際どう思うかはわかりませんが・・・)は心根で思っているというのは、政治的に「ひとつの解決」のように思います。
PENさま、IEさまとの議論の途中に割り込んだ形になっていますので、なるだけ手短にお答えします。
(1)まず、コメント1628「BC級戦犯合祀は適当かどうか」について。
私の考えは、コメント30で述べましたように、靖国神社合祀については、A級よりもむしろBC級のほうに問題があったと考えます。というのは、こちらの裁判は事後立法によるとはいえず、日本軍の軍法会議によっても死刑判決が下された可能性のある戦犯が含まれているからです。しかし、そうした戦犯も、また無実の戦犯も、いっしょくたに処刑されてしまったので、BC級刑死者のうち本当の戦争犯罪人を区別することはできなくなりました。
というわけで、疑念は残るものの、その死が「公務死」であること自体はゆるがないので、BC級戦犯合祀も適切であったと考えます。
(2)ついで、コメント1682「A級戦犯分祀が政治的にひとつの解決になる」について。
これは、まったく解決にはならない、と思います。
コメント1655でも申し上げたように、教義上特定の霊のみを除去するという意味での「分祀」は不可能ですが、吉田さまのいう、「霊璽簿からA級戦犯の名前を削除する」手続きをとったとしても、中国・韓国からの批判が収束するとは思えません。南京事件でのいわゆる100人斬りの向井少尉らはBC級なのです。彼らは当然BC級についても「分祀」を求めるでしょう。
そればかりか、外地で戦死された全ての方もまた、侵略戦争の加担者だから、ということで、西南戦争(1877年)以後の合祀者すべての分祀を求められることになるのは、これまでの経緯からみて確実なことです。
平山先生。
私の論は冒頭にあるように「他国に言われるまでもなく」
自国がどうすべきか、を論じたもので、中国や韓国の非難に反応しているものではまったくありません。
合祀基準はだれが定めるべきだったのか。本来の合祀基準にそぐわない合祀者がだれなのか。そうした合祀者がいたとして、どうとりあつかうべきなのか。そういう議論です。
吉田様
つまり、陸海軍省管轄別格官幣社靖国神社への合祀基準と、宗教法人靖国神社への合祀基準が異なっている、というのですね。
勅裁の有無がそれを分けている、というのでしょうが、戦前の合祀にあたって天皇ご自身が判断される、などということはまったくなかったのです。ですので、勅裁の有無はまったく形式的なことにすぎないと思います。
祭神選定の実務が陸海軍省から厚生省に移ったというだけで、私にはそこに手続上の瑕疵を見つけることはできないでおります。陸海軍の廃止によって両省は第一第二復員省となり、さらに復員業務と遺族の援護業務は厚生省に引き継がれているのですから。
私の見る限り、本文中に示されているA級戦犯合祀の不当性の根拠は、「戦犯合祀と中曽根参拝」中の、徳川侍従長が示した憂慮の表明だけで、しかも、裁判中に病没した永野修身・松岡洋右が合祀されるのは奇妙だ、ということのようです(できましたら徳川侍従長表明の出典をお教えください。新聞記事などではないオフィシャルなものを)。
すぐ後に、「平時の病死者・暗殺者・事故死者が合祀されることはありませんでした」とありますが、実際にはシベリア抑留中に亡くなった方なども合祀されております。
日本が「平時」に戻るのは、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日締結)によってであって、降伏文書が調印された1945年9月2日でも、ましてや国民に停戦が伝えられた1945年8月15日でもないのです。
皆さん、よく調べておられる感心します。私も少し調べました一つの別の道筋が見えました。政治家は大変ですね。
吉田様
私なりに徳川義寛侍従次長のA級戦犯合祀についての表明を調べてみました。昭和天皇がA級戦犯合祀を理由として靖国参拝を差し控えるようになったとの報道は、意外に最近なされたようで、2001年8月15日付朝日新聞「A級戦犯合祀で天皇参拝は途絶えた」より古いものは発見できませんでした。
その記事の中ほどに、本文中にも引用されていた「この年のこの日にもまた靖国の」の御製が使われ、徳川義寛元侍従長が登場します。以下朝日新聞より引用です。
「半世紀にわたって昭和天皇の側近を務めた徳川義寛元侍従長は生前「都合のいい解釈をしている」と憤っていた。
彼の手元には、A級戦犯合祀について昭和天皇の思いが率直に表現された別の歌が残されていた。1年前、中曽根氏が公式参拝した年に詠んだが、「騒ぎのたねをまくことはない」と公表は見送られた。
徳川氏は、この幻の歌も念頭に、歌集に「靖国とは国をやすらかにすることであるが、と御心配になっていた」と書き添えた。「祭神には戦争を仕掛けた人もいる」とも語っていた。」
この最後の「語っていた」は、徳川元侍従長がであって、昭和天皇ご自身ではないのは明らかです。また、「幻の歌」がどのようなものかも分かりません。
つまりこの新聞記事では、昭和天皇がA級戦犯の合祀を憂慮されたかどうかは、明らかではないということになります。「徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき「相当の憂慮」を表明」した、ということをこの記事からうかがうことはできないようです。
昨年の今頃調べた「靖国神社は部落差別を行っている?」http://hiepita.blog51.fc2.com/blog-entry-559.htmlもそうでしたが、根拠とされてきた事実が、じつは確認できない、ということがネット上ではしばしばあります。
徳川義寛侍従次長の表明が、じっさいにはどのような表現であったのか、ぜひとも確かめたいと思っております。
平山先生 私は一介のビジネスマンで、この調査に時間をかけることが難しいのです。納得したことは直しますので、ぜひご指摘ください。
本論は、法手続き的な問題に重きをおいているわけではありません。全体として合祀基準の正統性のありかたについて広く国民感情を問うもので、その際、特に昭和天皇の感情に焦点をおくべきことを指摘したものです。その肉声はめったに聞くことはできず、推測を加えるしかありません。
信頼をおかれ長い時間をすごした侍従長の声はほぼ、天皇の意見とほぼ同じではないか、と私は考えています。
しかし「A級戦犯合祀について昭和天皇の思いが率直に表現された別の歌」が公表されたら、ものすごく面白いですね。本論が真っ当とされるのか、大幅訂正を余技なくされるのか・・・
平山先生。
「徳川侍従次長(1978年当時)は、東條英機ら処刑された軍人たちの合祀には、賛成の立場だった」
とありますが・・・
「ともかくも」=問題外、論外。
賛成、とは必ずしも言えないのでは?
間違えて平山先生のコメントを削除してしまいました。心からお詫びすると同時に、再び掲載いただきますようお願い申し上げます。
A級戦犯合祀をやめるべきかどうかを論じるのに、何でこのようにくどくどと理屈を述べるのでしょうか。この命題に対する解答は、人間関係を考えれば明らかです。答えは、日本国としてどうしようが勝手で、自国で国民投票なりして決めればよいのです。これは、個人がどう生きるかは法を犯していない限り自由なのと同じです。但し、それだけでは人間関係、社会生活はうまくいきません。国家間も全く同じです。だから、人間は我慢をしながら社会で生きているのでしょう。アジア諸国が合祀や首相の参拝を嫌がっているのなら、日本の理屈ではなく、相手国の理屈や感情を研究して論じるべきでしょう。それがどうしても納得いかないのなら、付き合わなければよいのです。しかし、日本がそれでやっていけると思いますか?やっていけないのなら、相手国の気持ちも考えなければなりません。貴殿も結論は同じと思いますが、これほどまでに過去の歴史や自国の論理をくどくどと説明する必要はないのです。日本国民も、自国の論理ではなく、他国の気持ちを聞いて、付き合うかどうか決めればよいのです。これは左翼思想でも何でもありません。まともな人間の考えです。こんな簡単なことがわからない人物が日本のリーダーとなることこそが、本当に国益を損じることなのです。日本が中国や韓国と国交断絶してやっていける自信がおありなら自国の論理で通すのも勝手ですが・・・。社会生活でも、嫌な人間と我慢して付き合わなければいけないことが多くあるのではないですか。この問題で学者や専門家の神学論は避けるべきです。もっと単純に考えてください。失礼な言い方があればお詫びします。
1 このメモは、「関連質問」「そうですかが多い」などの注記により、公表された「会見」の内容をメモったものであることが明らか。
2 当然、「回答者」「質問者」がいるわけだが、富田がメモっていたということは富田も同席したことになる。すなわち最低3名が出席した。
3 ここで既に「回答者」が昭和天皇であることはあり得ないことがわかる。
なぜなら、1988年に昭和天皇が「会見」でこのような内容の爆弾発言をした事実はないからだ。
4 徳川侍従長の引退会見記事の内容が、このメモ内容と一致することから、会見は「徳川侍従長の引退会見」、「回答者」は徳川侍従長であることが明らかである。
参考:
http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/2c67ddd294f3cb4b6162ba094d88db30
物事を単純に考えたい凡人さんの二番目のコメントは本論主旨からの逸脱が大きすぎるため、削除させていただきました。
昭和天皇の人格って、この程度の ものだったのかと思ってしまいました。
勝戦国べったりで、日本国民や昭和天皇に替わって死刑判決を受けた戦犯とやらの方の事など、全く心に留めてなかったのですね
これらが事実とすれば、ただただ、悲しいだけです。
「A級戦犯を分祀すべき」「合祀をやめるべき」というとき、省略された「主語」は具体的には誰なのでしょうか。政府主導にしても国民投票にしても、国家権力ということになりそうですが・・・
>A級戦犯合祀は自らやめるべきである(7月20日改)
「自ら」以外による分祀はありえないと思います。「自ら」とは日本国民でも日本国政府でもなく「靖国神社」であり、なおかつ「(圧力によらず)自らの意思によって」でなければなりません。したがって「やめるべきである」と部外者が言うべきではないと思います。当の靖国神社は分祀を明確に拒否しています。
その結果によってもたらされる利益(中国との関係等)が何であれ、祀られている人の生前の行動が何であれ、死者を祀ること、その一部を分祀するということは明らかに「宗教上の行為」であって、現在それを行なっているのは、もはや国家の管理下になく、一宗教法人となっている靖国神社です。設立の経緯、戦前の所轄が何であれ、現在は一宗教法人です。
他国への配慮、あるいはその結果もたらされると期待できる国益を理由に「政治」を動かすのは当然のことですが、靖国神社関係者でもなく遺族でもない部外者が政治的な理由で「分祀すべき」などと、宗教上の行為そのものについて圧力をかけるのは、宗教活動の自由に対する重大な侵害です。ましてそれが国家権力によって為されるなど、あってはならないことです。宗教法人法の保障する原則が国の都合によって容易に無視されるのであれば、日本はもはや法治国家ではありません。
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