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嫉妬と尊敬は紙一重

2001/03/31
人間というものは

人間が持つ最も原始的な感情、そしてもっとも自分では見つめにくい感情が「嫉妬」です。
創世記には楽園から追放されたアダムとエバの息子、カインとアベルの話が書いてあります。
ある日カインとアベルが神を礼拝するときのことです。
農業をいとなむカインは「地の作物」を、牧畜に従事したアベルは「羊の初子」を、
それぞれささげものといたしました。
すると神さまは、弟アベルと、そのささげ物には目を留め、
一方兄のカインと、そのささげ物には目を留められなかったのです。
どうしてかというと、「羊の初子」はイエス・キリストにひたすら頼るいけにえを意味し、
農作物は人間の熱心と苦労のいけにえを意味するのですが、
「いくらおまえらが頑張って苦労してもだめで、ひたすらキリストに頼らなければいけない」
と神はいいたかったのです。
(のんびりとした神道の世界にいるわりにけっこう勤勉な私たちには、
なかなか理解が難しい一神教の神様ですね・・・)
自分の熱心と努力の成果が受け入れなかったカインは顔を伏せて怒り、
弟アベルを野に連れ出して殺しました。
これが(聖書上の、ですが)人類最初の殺人です。
兄弟間の嫉妬からこの殺人はおきたのです。

岸田秀という人が、嫉妬についてこう定義をしています。
「あるひとが「自分がもつべきもの、もらえるもの、もらって当然なもの」を持っておらず、
それを第三者が不当に所有していたり、あるいは所有しようと企みたりするときに、
その第三者に抱く憎しみの感情」
カインは頑張って苦労した対価である農作物をこそ、神が尊ばれるだろうと思っていたのです。
しかし受け入れられたのは、自分よりはるかに劣っているとばかり思っていたアベルのほうでした。
嫉妬という気持ちがなぜ人に受け入れられないのか、というと実は、そこには相手に対する「尊敬」があるからです。
相手を優れたものとして認めることと、自分の劣等を認めることはやや近いのです。
上のエピソードでは神に受け入れられるささげものを正しく選んだアベルに対して、
「まいったな」という尊敬心がカインには生じたはずです。
優者になってしまった頼りなかったはずのアベルと、劣等になってしまった優秀だったはずの長男カイン。
この逆転がカインにはとうてい認めがたいので、それで殺してしまったわけです。
「自分がもつべきもの、もらえるべきもの、もらって当然のもの」がそれほどしたものでない場合、
(たとえばゴルフのドラコンの商品とか、カラオケ大会の優勝トロフィーとか)人間は笑ってすますことができます。
「イヤー負けちゃったな。すごいね君は!」
しかし失うものが、その人の自我をささえる重要な、なくてはならない対象の場合、
あるいはさらに、それらがあってはじめて自分を是認し尊敬できることができる場合、
—恋人、名声、ポジション、才能、資産、家庭などがそうですがー
あまりに自分が傷つきすぎて、傷ついた自我が全面的に崩壊をおこしそうに感じるため、
相手の優越をすなおに認めることはとてもできないのです。

恋愛、尊敬、崇拝と嫉妬は、とても近い感情です。
裏切られた恋愛、見捨てられた尊敬、無視された崇拝が嫉妬です。
この葛藤、見苦しさ、やりきれなさが本人もわかっているから、嫉妬という感情を人は直視することができません。
嫉妬という感情を持っていることを相手にも周りにもなるべく悟られたくはないのです。
嫉妬を明らかにする人は、だからそうとうの自信家です。
だから嫉妬心は多くの場合、
1)心配=相手が失敗する期待 2)正義=周囲の同意を得ての非難
のどちらかの仮面をかぶります。
あなたがうまくいきだしたときに近寄ってきて、さりげなく心配や正義を持ち出す人がいたら、
ちょっとだけご注意ください・・・

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Comment

1 - Name: 五合 : 2005/08/02 06:39

こっこれは……(驚愕)

旧約聖書の神がイエス・キリストだったなんて、嘘だらけの
インターネットとはいえ、趣味とはいえ、なんということを(絶句)
よく今まで怒られませんでしたね。もう

工工エエエエ(´Д`)エエエエ工工 ってかんじ。

そら嫉妬もされんですわ。

2 - Name: bold : 2005/08/02 11:50

すみません。

キリスト教では、アリウス派というものがありました。
これはアレクサンドリアの司祭アリウス (256頃~336) の説ですが。唯神論に立って、キリストは本質に於いて神と似ているが、やはり被造物であり、「人間」としての特性も持っている、と主張、神との同質性を否定した。
これに対して出てきたのが、三位一体説です。
325年のニケーア宗教会議で次のような定義がきまりました。
1)父なる神
2)子なる神イエス・キリスト
3)聖霊である神
この3つは同質(ホモウジオン)である。結果アリウス派は追放され、その後ゲルマン民族に広まっていきました。

この、三位一体説という教義は、381年のコンスタンティノープル宗教会議で確定、451年のカルケドン宗教会議で正統教理になりました。ということで、よろしかったでしょうか?

3 - Name: 五合 : 2005/08/02 22:26

大変失礼いたしました。先生のご記述の正確性を疑いました私が馬鹿で無知でした。

ですが素朴な疑問といたしまして、旧約聖書で神が「イエス・キリスト」を云々するセリフなんてないですよね。でしたら、神とキリストが同じ意味であっても、旧約聖書の話をするときは「神」で通すのが普通ではないのですか。新約聖書でイエスは「神はどうのこうの」と語りまくるわけですから、意味が同じでも三つの呼び名を自由に入れ換えたりしたら、ややこしくありませんか。

あとこの話をどう思われますか「プロテスタント」の信者の方? (←吉田先生は修正前のコメントでプロテスタントではそうなんだ、と書いていました。)
(そう、先生はまたしても修正しまくりなのですよ。記述の正確性を保つためには当然のことだと思いますけどね…。)

記事の後半についてですが、そうですね、私も実は吉田先生のことを心のどこかで尊敬・崇拝・嫉妬もうしあげているのかもvvv


あ、あとこの人↓にはひとこと言いに行かないんですか? 
「非常に困った本だ」
「こんなものを世に出した編集者の良識を疑う」
「バカ」
って言われてますよ。
http://d.hatena.ne.jp/Oyayubi/20050719/p2
http://d.hatena.ne.jp/Oyayubi/20050719/p3

4 - Name: 五合さん : 2005/08/02 22:36

すみません、間違えた場合には、直しているんです。
あと、そこにトラックバックを張りたいのですがはれないんですかね、HATENAは?

5 - Name: あと : 2005/08/02 22:40

プロテスタント教徒にとってはイエス・キリストが神そのもので、それ以外はないのです。確かに家庭的環境のせいで、このように記述してしまうってことでしょうね・・・

6 - Name: 追伸 : 2005/08/04 16:28

三位一体説は、プロテスタント、カソリック両方が取り入れています。プロテスタントの分裂はそれより10世紀以上あとのことだからです。しかしキリストとの距離には、聖書を直接信者が読むことを奨励したプロテスタントのほうが、はるかに強いです。一方カソリックではローマ教会と司教たちの権威を守るため、一般に信者とキリストとの距離を非常に遠いものとし、神秘化をはかったといえるでしょう。したがって、カソリック教徒がこのようにキリストに言及することは、めったにないことのように感じられます。

これらが当初、プロテスタントと書きかけた理由です。

7 - Name: 五合 : 2005/08/04 23:44

「カトリックでも三位一体」ってのはわかります。
「父と子と聖霊との御名によりてアーメン」言いよりますものね。
でもそれは要するに「旧約新約ひっくるめたところで」という
ことではないのですか?

私の質問は「プロテスタント」では旧約聖書の話をするときでも
この記事のように聖書の記述から離れて「神」と「イエス・キリスト」
を自由に言い換えるのが普通なのですか、という素朴な疑問でございます。

むしろ私は初読のときに先生はキリスト教者ではないのではないかと
思ってしまったのですが、日頃から熱心に信仰されていらっしゃる
のでしょうか。それはそれで見る目が変わると思われますが。

8 - Name: bold : 2005/08/05 03:43

神=イエスキリストです。そのとおり!です。

私の両親はプロテスタントです(した?)。
私自身はキリスト者ではありません。
どこかではぐれてしまいました。
しかし、何かしら強烈なるプロテスタント的な部分があり、
(正しいことを希求する、善悪に敏感など)
それがこのサイト全体(および炎上)の基本トーンとなってしまっております・・・

9 - Name: こんにちは : 2005/09/21 10:09

こんにちは。
わたしはクリスチャンなのですけど、今嫉妬心と日々闘っています。
その心と向き合うと本当に苦しい思いで、不安にも駆られます。
その心からも逃げたくもなるのですが、毎日聖書に勇気付けられて
日々過ごしています。
今日はヘブライ人への手紙11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を
確信し、見えない事実を確認することです。」を読み励まされました。
イエスがいなければ、望んでいることも素直に望んでいます、とも
言えない人生でした。
そのひねくれた思いから、たくさんの罪をおかしていましたし、
人生そのものが空しかったです。
神様がわたしの人生を憐れみ、イエスの十字架をもって、
罪を贖ってくださった事に本当に感謝の思いでいっぱいです。
イエスは私の人生の希望です。

嫉妬心について、とてもわかりやすかったです。
(とても痛かったですけど・・)
自分のこころも自分ではコントロールできずにいますが、
ただ神様がこのこころを開放してくださるようにと、願い祈る日々を
送りたいと思いました。
そしてイエスと共に、今日確信した自分の望みを、
事実として確認していきたいです。

読んでくださって、ありがとうございます。。


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