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波乱万丈ってすてきじゃないか!

2001/03/18
人間というものは

高橋是清、という人の話をしましょう。この人は日露戦争のときに日本政府のお金がなくなったので外債といって海外で国債を発行したり、大恐慌のあと大蔵大臣をやったり、最後は軍備拡張に反対して陸軍の凶弾に倒れた日本政治史上、最高の財政家の一人です。
明治という時代のせいもあるのですがこの人の人生は波乱万丈です。
安政元年(1854年)、幕府御用絵師の妾腹の子、として生まれた高橋是清。
彼はまず12歳で寺子屋の小姓にだされ、そのあとすぐ13歳のときに、イギリスのバンクング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インディア・アンド・チャイナという銀行のボーイになります。
彼はそこで洋行を企てます。親に黙って捕鯨船に乗ってアメリカに行こうという寸法です。
ヴァン・リードというアメリカ商人に旅費を渡して、彼の両親のいるサンフランシスコに行くことにしたのです。
すでに酒の味を覚えている高橋少年は、船の中でたらふく酒を飲んでしまい、同行する鈴木少年の金まで使い込んでしまいまったそうです。そして訪ねたヴァン・リード老夫婦のもてでは、彼らの食べ残しを食べ、夜はランプもつけられない生活です。
文句をいうと今度は、契約書にサインをさせられ、ブラウンさんという人の家に預けられます。
その契約書というのは・・・・・当時は既に禁止させられていた「奴隷売買」の契約書だったのです!
彼が15歳のときに、ブルークスというサンフランシスコの名誉領事のところでヴァン・リード氏と対決し、天下はれて自由の身になりました。

帰ってきた高橋少年は、今度は森有礼という教育者(といっても当時23歳)を訪ねます。
「僕の部下として英語を教えなさい」・・
幸い明治2年に大学南校(今の東大)が創設され、彼は教官三等手伝いという役になります。
ここで高橋少年はフルベッキ博士に聖書の講義を習い、クリスチャンになります。
ここで高橋青年(そろそろ17歳)の放蕩!が始まります。
生徒の借財の面倒を見てあげたお礼に、両国の柏屋という料理屋に招待されたのです。
歌や踊りの稽古をはじめ、芸者ともなじみが出来る。ある日、芸者を連れて浅草の芝居を見にいき、彼は芸者の長じゅばんをきて痛飲します。そこを大学南校の教師に見られてしまったのです。(どうやら当時の官僚は下っ端でもそうとう給料がよかったみたいです)
「もういられない」彼は潔く辞表を出します。
行く先がなくなり、彼は馴染みの芸者東屋枡吉の家に住み込み、
芸者の三味線を箱に入れて送り迎えする「箱屋」お手伝いをする事になりました。(いつになったら総理大臣になるんだ)

話があまりに長くなるので、要約すると・・・・・・
その芸者との結婚をあきらめた高橋青年は役人になったり学校の校長先生になったりしたあと、
養牧業、相場師を体験、明治14年に再び役人になって農商務省勤務、商標専売制度を研究して、
明治20年に初代特許局長(現在の特許庁長官)になりました。
これは山林局の地所を売ったお金が8万円あるので、これを聞いた高橋青年が「これで特許局をつくったる」と言い出して特許法をつくって参議院議会をとおしたのです。
つまり商標特許を販売して、その金で特許品の陳列を行い宣伝し、発明の審査や手続きが迅速に進むように、一般会計と分けなければいけない、というのが高橋是清の主張で、その省庁は彼を社長とする一種の「会社」として始まったのです。
明治はだからいろいろと経験をつんできた人でないと、まず省庁自体がつくれない、という事だったと思うのです。

その後明治22年、彼はペルーの銀山が有望であると聞いて、官を辞してペルー銀山の開発に赴きます。
ところがこれは完全な詐欺で、ようするに数百年間掘りつくしたの銀山の廃坑をつかまされてしまったのです。
私財ばかりか友人の資金もこれに投入した高橋是清は、家屋敷を売り一切の後始末をつけます。
奥さんは毛糸を編んで手内職をはじめ、わずかな工賃をかせぐ境遇となってしまいました。
「この上は運を天に任せ,一家のものは一心となって家政を挽回するように努めなければならない。ついてはこれから田舎に引きこもって、大人も子供もいっしょになって、一生懸命に働いてみよう。それでもなお、飢えるようなことがある時は、一緒に飢えてもらいたい。」
37歳高橋是清、人生最大の落魄の時でした。

誹謗中傷が満つるなか、彼に日本銀行本店新築工事の建築事務所長の声がかかります。
彼は芯をレンガにしてまわりに薄切りの石をはりつける工法を思いつき、羽柴秀吉ばりに4人の親方に建物の四方面を請け負わせて一万円の懸賞をつけて競争させ、見事納期にまにあうように
仕上げました。
これが出世の始まりとなり、その後、横浜正金銀行の支配人、同行副頭取、日本銀行副総裁、総裁、その後日露戦争の戦費調達のための外債募集に成功して、名声を高めました。
その後大蔵大臣となったのをきっかけに政治家に転身し、大蔵大臣たること6回、政友会総裁、
大正10-11年には、内閣総理大臣を務めます。
そして昭和11年2月26日、226のその日に青年将校の手により83年の生涯を終えました。

社会が大きな穴だらけだったからこそ許された波乱万丈の人生。
でも・・・・・気がつくとこれから先の日本も穴だらけになるかもしれませんよ・・・

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