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「筆政はあるか」

2000/09/01
歴史と社会

これは新聞向きに書いたんですが、さすがに掲載する社はありません。まさにネット向きの原稿です。

筆政という言葉がある。国家の基本方針を巡る重大な意見対立の際に国論をまとめる力。二元論に基づくメディアの政治性を表現した言葉である。これを執り行うのは、新聞社の論説主幹。現在これを持つ大新聞(読売新聞)と持たない大新聞(朝日新聞)がある。ある新聞人は私にこう言った。「時代の大きな変化が新聞に強力なる論説主幹を求め、創り、そしてその主幹が筆政を祭るのだ」と。
 だがはたしてそうだろうか、そこにはそうあってほしいという願望しかないのではないか、と私は少し疑う。今強力なる論説主幹を持つ新聞社は、重大な局面においてその論説主幹の死を迎えるのかも知れず、そのあと強力なる後継者は育っているのだろうか。ビスマルク亡き後、ヒットラーの登場まで偉大な政治家は出なかったという史実もある。

 今論説主幹を置かない社は、本当にいざという国難の時に強力なる論説主幹が登場するのだろうか。そうした人材を排除し無難なまとめ役を重宝してきた歴史は、そのときにいきなり逆転可能なのだろうか。
 「我々○○新聞は過去○代に渡って社主を教育してきた」という言葉を私はある新聞人から聞き、生涯忘れない感慨を持った。その際の「我々」とは一体なんだろうか。おそらくは、筆政を司る社内官僚=記者団の系譜を彼は、我々といったのだろう、と私は思った。しかし、そこにおける社主と記者団との間には、強烈な愛憎を伴う共依存関係があり、そこには自己を振り返る他者の視点や内的な会話が、少しく欠けているのではないか、という疑念が、正直に言えばわいたのである。

 新聞社やテレビ局はインフラ産業であり、野蛮な経済人がこれをはじめる事ができる時代は遠い昔に過ぎ去った。メディアに従事する人間の心性としては当然、己をそうしたインフラの奴隷とみなす事はできないだろう。メディアというのは極めて知的な営為であるべきであり、そこにおける従業者の矜持は極めて高く保たれるべきであろう。
 しかし、一方でそうした矜持が自己の冷徹な確立に基づいていない事を私は恐れる。今、会社を辞めたからこそ感じるのは、自己の確立の第一歩は経済的な自立であり、自分の商売道具を展示し、料金メニューを作る力である。その経済的自立のあとで始めて精神的自立が訪れよう。
 もし人が一生社を離れる事ができない(終身雇用)と感じ、そのメディア企業が高い給料を払っているため、社を離れてまで、自己の哲学や美意識に基づく自我を貫き通す事ができない場合、そこにおける心性にはどこかしら「奴隷」「社畜」の要素がはいってきはしないだろうか。「奴隷」「社畜」を自認するテレビ人はまだ可愛い。恐ろしいのは矜持を勘違いした「奴隷」「社畜」たる新聞人である。
 雑誌業界であればそこにはたくさんの雑誌があり、新しい職場の創出があり、ある程度の人材の流動性が保たれている。しかしマスメディア会社間での人材移動は極めて稀である。美学や哲学を貫き通してなおかつマスメディア人でいつづける事は難しいのである。
 そのことと、先ほど述べた「自己を振り返る他者の視点や内的な会話」の欠如とが私の中ではオーバーラップするのである。
 「二元論に基づくメディアの政治性」は、強力なる敵がいなければ自己を、そして会社を発見できない自立性の無さによるのではないか、と感じるのである。
 私は夢想する。もし読売新聞にいて本来朝日新聞の論調を愛する真っ当な10人と、朝日新聞にいて本来読売新聞の論調を愛する真っ当な10人を交換してみたらどうなのだろうか、と。(給与格差・格式感の問題があり、前者は現実としていないであろうが。そもそも真っ当な転職者がありえない業界なのかもしれないが。)

 かりに筆政というものがあったとして、それが国論の二分を前提にしているとして、そのテーマはおそらく、憲法改正になるだろう、と憲法改正反対論者側の新聞人は言う。
 しかしその問題設定は正しいのだろうか。その問題設定に基づいて論説主幹を選ぶ、という発想がそこにあった場合、その発想は極めて官僚的といえる。というのは、論説主幹は「問題設定」自体を選ぶべき存在だからである。
 国論の対立という二元論を作り出しているのは、実は新聞社側の対立構造なのではないだろうか。強烈なYesと強烈なNoには実は似ているところがあり、それは対立軸の存在を前提に、お互いをあてにした演技的意見である、という点にある。それはYes、Noがはっきり決まるまでの劇であって、憲法改正の実施が起こった瞬間に、その演技は陳腐なものになる。
 実は永久に憲法改正が起こらないほうが、憲法改正を主張する新聞社にとっても(経営的に)都合がいい、という事がありえる。それは悲憤慷慨という強い感情を主幹に与え、新聞の紙面にある種の熱情を作り出すからだ。憲法改正が行われた瞬間に、その熱情は失せその新聞人は引退を決意するかもしれない。

 「永久にやってろ、茶番劇を、冷戦が終わった100年後までも」
 と優秀な若者は感じ、新聞から離れていったのではないだろうか。

 この若者読者の消滅という事実は私の心を強く打つ。退社を決意した日から、私はほとんど新聞を読まなくなったからだ。個人吉田望が新聞を読みたいということではなく、単に電通マン吉田望が新聞を読まなければまずい、と思っていただけの事にようやく気がついた。

 正直に言えば、もうどうでもいいのだ。この国日本の未来にはなんとなく、あまり希望がなく、国外に楽しみを持ちたい、できればこの国にはなるべく税金を払いたくない、というのが正直な気分である。

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