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「美しい国へ」(安倍晋三著)への違和感 その4

2006/09/21
歴史と社会

「ニュー・リベラリズムの要素を持たない成功した資本主義は一体ありえるのか?」

ではなぜアメリカでは、イギリスに遅れて20世紀に入ってから、ニュー・リベラリズムがさかんになったのか。西部開拓時代(American Old West)は1860年代に始まり1890年代のフロンティアの消滅まで続きました。大都会で労働者になるのではなく、ともかく西に行けば土地がある。開拓時代が終わるまで、イギリスで労働者が直面した大産業資本主義による悲惨なしわ寄せの状況は、アメリカでは生じなかったのだと思います。

さて。ニュー・リベラリズムの評価について。
もちろん今日では、こうしたロイド・ジョージが始めた社会福祉・弱者保護政策の是非は分かれています。庶民出身のサッチャー首相が、保守党に入り、競争緩和や人頭税など、ニュー・リベラリズムの行き過ぎを窘めて産業の再生を図ったことは記憶に新しいです。アメリカのレーガン大統領が採用した「サプライサイド・エコノミクス」、つまり減税を行う企業側・事業者側のインセンティブを高めて、社会の活性化を図ろうという政策は昨日までの小泉改革にも引き継がれ、20世紀後半から21世紀にかけての大きな政治潮流のひとつであることは事実です。安倍さんもその延長線上の政策をとられることでしょう。

しかしその前の人類の政治思想の歴史をきちんと認識した上でなければ、私たちは政治の立脚点というものを確認することができません。
とりわけ保守を自認する人たちは歴史に対して謙虚でなければいけません。

19世紀後半から今世紀にかけて、産業資本主義が巨大化し、社会を覆いつくしました。自由競争により最大多数の最大幸福を自動的に実現するとはとうてい信じられないあまりに非人間的で、悲惨な社会の現実が出現したのです。
そのときに「個人の自由で独立した選択を実質的に保障するためには、単に自由放任にするのではなく、そうした選択や自由を阻害する偏見や社会的、経済的強制を排除するなど公的な権力の介入も時に必要である。」
「この複雑な現代社会で自由を獲得するためには、他からの不干渉というのにとどまらず実質的な自己決定、自己支配が達成されなければ、形式的自由には意味がない」という積極的自由を重んじる思想が、リベラルのなかで次第に優勢となっていったのです。

その論者の一人であるジョン・ロールズ はニュー・リベラリズムの原点として、「『公正』とは『立場入れ替え可能性の確保』を意味し、人々に『社会のどこに生まれても自分は耐えられるか』という反実仮想を迫るものである。」と述べています。
私も安倍さん同様社会主義や共産主義が好きではありません。
しかし社会主義とニュー・リベラリズムは、この一点をとってもまったく違うと思います。社会主義・共産主義のもとでは、たとえば中国や北朝鮮、あるいは革命以前の東欧やソ連の政治エリートを思い浮かべてみればすぐにわかることですが、「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想へのリアリティをまったく欠く正反対の社会が、そこには出来上がっています。

結局行き過ぎはあったものの、イギリスやアメリカはニュー・リベラリズムの思想を取り入れ、巧みに調整を図ることで、共産主義に勝ちました。遅れてきた資本主義国である日本、ドイツ、イタリアなどは、それを野蛮な「国家社会主義」という形で実現しようとし、大きく失敗しました。その社会システム間の競争で優劣がついたことが、20世紀の大きな政治潮流です。
ニュー・リベラリズムの行き過ぎをそのつどたしなめることは重要ですが、たとえば選挙権の保障、基本教育、相続税、累進課税、秘密投票、健康保険、失業保険、労働組合などの社会制度は、今後とも21世紀に私たち先進的な資本主義国が引き継ぐべき19世紀からの基本的遺産ではないかと私は思います。
(この項続く・随時書き直しあり)

「美しい国へ」(安倍晋三著)への違和感 その5(終わり)

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