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会社は鵺か蝙蝠か

2005/03/07
ライブドア

フジテレビ対ライブドアの係争はとてもひとごとは思えません。会社の根本を考える日々です。今回は自分の理解のために書きました。まとまっておりません。

「株式会社というものは胡散臭いものであり、普及させるべきではない」。
これは中国共産党幹部の意見ではありません。経済学の創始者、アダム・スミスの意見です。当時は資本主義の草創期。株式会社を巡る不祥事が頻発していた、という時代背景がありました。イギリスでもっとも有名なのは南海会社事件。それ以外にも。
プロジェクタ−の栄光と挫折
これはフランスにて私設の国立銀行を世界で初めて造ったスコットランド人「ジョン・ロー」のことを書いた話です。このバブルの失敗がフランス革命の遠因になったというぐらいに歴史を動かした不祥事だったのです。

 どうして株式会社が胡散臭いのか。まず会社は法人や法人格という言葉にあらわされるように、世間の「人」同様の権利をいくつか備えています。契約当事者になることができ、また、訴訟を起こしたり、訴訟を受ける存在です。そもそもモノや金、従業員の集合であるところの会社に、なぜ「人格」が付与されるのか。会社はモノなのか人なのか、その中間的な「鵺(ぬえ)=頭は猿で、尻尾は蛇、手足は虎という空想上の得体の動物」や「蝙蝠」のようなところが、最大に胡散臭いところなのです。
 二番目にこの鵺だか蝙蝠を経営していくときに、会社1)株主と2)経営者の両方に「無責任」があり、罪の擦り付け合いと責任の回避が避けられない点です。

 1)まず株主は「有限責任」といって、会社経営が社会や資金の借り手にもたらした損害は株式の範囲に限定され、それ以外の責任をおうことはありません。
 それは当然でしょ、と言う意見もあるでしょうが・・・・株主総会で、非常に危険な経営者を選び、その会社が企業舎弟企業や、詐欺の常習企業となったり、はたまた大胆な社会犯罪をおかしたとしても、株主の責任は株式の範囲に限定されます。(もちろん、社会的信用は失いますが)株主にとって責任から切り離されるまことにありがたい仕組みで、だからこそ、株式会社は産業資本主義を起こすだけの膨大な資金を集めることを可能にいたしました。

 2)もう一方の経営者の無責任について。こちらはもうちょっと難しくなります。
 誤解があるようですが、代表経営者は「株主の代理人」ではありません。それならば世界の全ての代表経営者は弁護士が勤めるようになるでしょう。代理人ならば、経営責任を株主に負わせることも可能しょう。株主を免責するために、経営者は株主の意向は尊重するが、自分の意思と責任で経営を遂行していくことが求められます。
 次に。代表経営者は別に「会社と契約をする」わけでもありません。それは自分で契約書をつくって自分と契約するような話で、とてつもないモラルハザードが起こることでしょう。つまり経営者は「契約」に縛られる存在ではないということです。
 経営者は、多くの株主が想像もつかないイノベーションや合理的な組織化能力を持つ、尊厳ある個人です。経済学者のJ・A・シュンペーターや、経営学者のP・ドラッガーらは、資本主義社会のもっとも重要な駆動力を、この経営者に見い出しています。
 経営者は会社法により定められ、会社から「信任」を受けている信任受託者です。(この信任という概念は、日本ではあまりなじみがありませんが。)その信任は(1)「忠実義務」=自分のためでなく会社の利益をまず第一に考える。(2)「注意義務」=立場にふさわしい通常の注意を支払って行う。の二つです。
 これらの義務が果たされているかどうかの判定は非常に難しい。契約と違って信託というのは「倫理」であり「心根」の問題を含むからです。そして倫理と尊厳を備えている個人というのは、残念なことに私たちの社会では極めて少ないのです。
 会社経営者のほとんどは、厳しく長い選考過程のなかで、能力のみならず、倫理性まで問われているわけですが、それでも経営者の犯罪は昔も今もあとをたちません。経営者の倫理が保たれているかどうかは、司法を中心とした国家の介入がなければ担保されない部分でもあるのです。とはいえ、それは会社が瀬戸際になるまでめったに生じない事態であり、経営者の無責任の浸潤は、日常的に避けられない部分であります。ですから近代企業は経営に対するさまざまなチェックシステム(監査役、社外取締役、株主権限)を定めているのです。

 経営者と株主。このどちらかが責任をもってくれると、企業もまともでいられるのですが、この両者が無責任だと、企業には責任の空白地帯=「モラルハザード」が生じます。そして、この無責任状態は非常によく起こりがちです。なぜなら株主が無責任だと経営者は、自らが責任を持つ動機を失います。一方、無責任な経営者が放置されている場合、その事実自身がすでに「株主の無責任」を意味します。ということは片方に責任感がないと、とたんに双方が、そして企業全体が無責任になるのです。

 自由主義・市場主義の立場からは、神の見えざる手によって倫理性がない企業が淘汰され自然に倫理性のある企業だけが生き残る、完全競争の世界を想像したいところです。しかし近代会社は、神の選択を恐れなくなるほどに、企業悪が強大化することがわかってきました。例えばアメリカにおける鉄道事業の独占化であるとか、環境汚染の企業史。あるいは最近のエンロン事件とアーサーアンダーセンの消滅など、エリートが犯す極端なモラル・ハザードの例を考えてみてもわかります。したがってそれを規制するために国家や司法の強力な介入が必要になるわけですが、規制の必要性に対する自由主義者のチャンピオン=アダム・スミスの嫌悪感もむべなるかな、というところでしょう。

 今日本企業が直面している大問題は、どちらかといえば、比重は1)経営者の無責任です。戦後に始まった株の持ち合いで「株主」が見えなかったことに安住して、株主利益を重視べき経営者の倫理=忠実義務が揺らいだ。これが現在企業買収を敢行する諸投資会社、堀江さん、村上さんなどの立場であり、それはある程度正鵠を得ていると思います。
 しかし振りかえって、もう一方の「株主責任」というものはどうなるのか。
 現在よりもはるかに株主権が大事にされていた大正から昭和にかけての株式会社21社の破綻について「高橋亀吉」という市井の著名経済学者が分析をしている資料によれば、それらの理由は。
1)役員の不正 2)事業の無謀拡張と蛸配 3)放漫経営と蛸配 4)投資対象の失敗と蛸配 5)放漫経営による銀行破綻 6)大風呂敷経営 となっております。(この蛸配というのは、蛸が自らの足を食べる例に見習って、長期で経営されるべき株式会社を短期にて食い尽くす行為をさしています。)
 基本的には「株主の専横から蛸配当を強いられ、それを隠蔽すべく欺瞞的・バブル的な経営が行われ、かくて事業を破綻に導いた」ケースがほとんどとなっています。
 
僕たちは今フジテレビ対ライブドアの係争で、経営者か株主、どっちの言い分が正しいのか、という行司役の心境になっていますが、本当にそうなのだろうか。長期で会社の利益を社会と調和を図りながら向上させる、という目的に対しては、実は両方の立場は本来一緒であり、そこで問われるのは人からは目に見えない「心根」と「倫理」であろう。当たり前のつまらない結論なのですが、僕はそう思います。
 
(といっても人間はかなりのところ正直な動物であることも事実です。その経営者の過去の発言を全部集めてみるとか、あるいは司直によって確認されるところの「電子メール」などにより、「心根」や「倫理」も相当把握できる時代になったことも事実です。)

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