記憶と感情と首尾一貫と |
2002/12/21 人間というものは |
記憶と感情と首尾一貫とやさしさというものはどうやら、記憶と深い関係があるらしい。
例えば友人や恋人の誕生日、好み、趣味を熟知するだけでなくそれを記憶にとどめている人はそうでない友人や恋人に比べてはるかに「やさしい」といえるだろう。
もちろんそれらを知った上で無視したり、あるいはその逆をいったりする究極の意地悪さも「記憶」と関係しているといえるのであるが・・・
その記憶は私たちが抱く感情という感覚と、どうやらきってもきれないらしい、という事がわかってきた。
つまり集めては消える日々の短い記憶を熟成し精製し、長期の記憶に変えるメカニズムに、私たちの感情というメカニズムが深く関わっているらしいのだ。
たしかに私たちがある光景や経験を目の前にして、強烈な感情をいだけばそれはそのままその感情とともに大脳に刻み付けられるから、なんとなく直感的にわかる話ではある。
さて、感情という感覚はどうして私たち人間にそなわってきたのだろうか。フランシス・フクヤマという社会学者は次のような面白い説を紹介している。
私達は私たちの欲望、性欲や食欲についていだく根源的・個人的な感情以外に、様々な社会的な感情を発達させてきた。
それはどうしてかというと、私たちの社会には善人や悪人がおり、それはなかなか簡単にはわからない。
私たちの祖先は長い間、狩猟を行ってきたが、例えば、いつも、獲物が見つかると最初に声をあげ、近づき、みんなが戦いだして怪我人や死人が出、そして獲物が弱った頃にふたたび、勢いよく最後の止めを刺し分け前を主張しようとする仲間がいたとする。
その行動は一回や二回では勇敢だという賞賛を浴びる事があっても、それが何度となく繰り替えされれば、やがて彼の本性はみんなに伝わり、彼と一緒に狩りをしようとする人はいなくなるだろう。
彼はもしかしたら日頃は信頼できる頼もしい仲間かもしれない。
しかし死や失敗への根源的な恐怖のために、彼はもしかしたら自分でも思ってみなかった行動をとってしまうのかもしれない。
しかしやがて「彼はなんでもないときには頼りになるが、いざという時にはさっさと逃げ出し、あとで自分の手柄を主張しそうだ」ということを私達は次第に見抜くようになる。
命が惜しいという強烈な感情を抑制し、怖くてもそこにいて戦う。
そのために私達人間は見栄や義理、志、忠誠心、美学など、私たち人間をして首尾一貫して物事に対応することを確実にする特別な感情や本能を発達させてきた、とフクヤマ氏は説く。
しかしひとたびその感情が働くときには、私たちの動物本能を上回って作動する強烈感情のメカニズムが私たち人間にはある。
私のまだ人生行路の半ばの経験を振り返ってみても、日々の生活の中でそうし
た首尾一貫が問われる強烈なシチュエーションはめったに訪れない。
しかし退職や離婚(この二つは経験中だが)、あるいは私はまだ経験はないが倒産や破産、あるいは役員への昇格時なども人間の首尾一貫が試される機会だろう。
私は最近ブランドということについてよく考えるのだが、それは多分、この首尾一貫という対応を確実に行うためのビジネス上の装置なのではないだろうか。
ブランドに首尾一貫とやさしさをもたらすのは、「記憶」である。
PostCommnet
サイン・インを確認しました、.さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがない場合はコメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になる場合がございます。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらくお待ち下さい。)