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メディアの声、メディアのアルス

2002/09/03
メディア社会
1990年7月に執筆したものです。




メディアは、固有の声のコンテクストを持つ。
声やコンテクストは、メディアのつくり手と受け手の共同作業によってつくられ、
やがてメディアの属する共同体固有の物語を語るための共有財産となっていく。
技術革新が凄まじい速度でメディアの歴史を分断しつつある現代。
私たちは、メディアの声とコンテクストに耳を傾けることを迫られているが、
それはメディアとコミュニケーションの豊饒化をもたらしてきた人間の深淵の欲望について、
思いを馳せることでもあるだろう。


メディアの声

フローベールは、今日私たちが考える小説の原型をつくった。それまでの小説は、たとえばアラビアンナイトのシェラザードのように、作者の分身である明確な語り手の「声」が、直接読者に語りかけ、主人公は「私」として登場するのが常だった。フローベールの小説に明確な語り手は登場しない。今日ある多くの小説のように、客観的な声が話を進め、小説が自分自身の力でストーリーを作り出していく。主人公を「彼」と呼ぶのは、わずか140年前にフローベールが始めたのである。そして小説は、作者からも読者からも、書かれた時代の社会基盤からも距離を置くことが可能になり、テクスト(作品)単体としての意味=時代や場所を問わない文学性を、獲得した。新しい「声」の発見が、小説の可能性を大きく広げたのである。

自らの物語を展開していく「声」のトーンと大きさに対して敏感なのは、小説家だけではない。編集や編集作業—メディアのマーケティング—に携わる人々にとっても、読者や視聴者に語りかける声色の選択は、本質的な課題である。人にものを語る「声」を作り出していくことが、彼らの職業本能である。

「声」という言葉を性格に定義せずに使っていくことを許して頂きたい。声は、事物と語り手と聞き手の関係であり、メディアが帯びる社会性と文化性の比喩である。メディアの社会性や文化性を語る多様なコンテクスト 。 i たとえばアイデンティティやパーソナリティ、社会的な役割と機能、テクスチャー(感触)やフェティシュ ii などを、ここではまとめて「声」と呼んでいる。

技術革新が、凄まじい速度でメディアの多様化をもたらしつつあるこの時代。それぞれのメディアの「声」に耳を傾ける作業は、私たちに、21世紀のメディアに対するより落ち着いた鳥瞰を与えてくれるように思われる。


「立て札」「落書き」「覗き穴」「友人」

全てのメディアは、基本的にポリフォニック(多声)である。しかし単純化や類型化を恐れず、既存のメディアが帯びる特徴的な声を簡単に描いてみたい。

日本に限らず、多くの国で新聞は「権威ある声」、「顕在した声」を持つに至った。昔でいえば、「立て札」の機能である。語り手の権威や正当性を背景にした声、そして社会のモラルを語る声である。

それでは雑誌の声はどういう質と大きさであろうか。「匿名の声」と言って構わないだろうか?もちろん、欧米や日本の一般雑誌のあるものは「権威ある声」を獲得しており、専門誌や情報誌のあるものはこの比喩になじまないかもしれない。しかし、雑誌ジャーナリズムの特質は声の匿名性にあり、匿名性をもって初めて語れる類の情報が、雑誌の大きな魅力のひとつである。身近な例でいえば「落書き」の役割である。

それではテレビはどうだろうか?一般的なテレビの視聴角度は10度である。これは人にとって片目をあてがった筒、あるいは「覗き穴」と非常に近い感覚である。エレクトロニクスのおかげで、眼前を離れ、時空を浮遊する覗き穴—古来からの人間最大の空想のひとつ—が実現したのだ。

テレビに注意深く耳を傾けると、テレビの声とは登場人物自身の発声であることが、よくわかる。テレビは10度の視界以外の部分を隠蔽することによって「登場人物の声」をクローズアップする装置である。だからニュースキャスターは(穴の開いている)塀同様、鼻につきすぎてはならない。

そして、かつてテレビの急成長期にラジオメディアが行い成功した戦略は、「権威ある声」の説教臭さや「覗き穴」の虚構を離れて、親しみやすい「友人の声」を獲得することであった。

「立て札」や「落書き、「覗き穴」や「友人」は、古くから現在に至るまでの、僕たちの社会にある、事物と語り手と聴き手の役割の類型である。今日各メディアがこの社会のなかで棲み分けているのは、既に長い歴史のあいだに、何を語るか(情報の種類)とか、それをどのようなかたちで(音、画像、映像)提示するかという問題以前に、人々に語りかける声色において、大きく異なってきたからである。


「データベース」「ミニ宗教」「博物学」

メディアの基本機能は、情報の編集と提示であるが、今日の社会に存在するマスメディア以外のメディア的な社会装置はどのような声を帯びているのだろうか?典型的な例はデータベースとミニ宗教と博物学である。

巨大なデータベースは、現代的な情報編集の一方の象徴である。森羅万象の情報を網羅しながら、データベースは、自らは発生しない。データベースは声を極力排除した無声メディアである。「データベースをはじから検索する男」は、現代的な隣人の狂気の典型であるが、得られる情報を紡ぎ、声を織り成すのは、当人の知性と想像力だけである。データベースは人が知りえる情報の地平を広げたが、同時に人に、なぜ、そしてどのような情報を集めるのかという強い意志をもつことを迫る装置である。

データベースの対極にある情報の編集方法は、ミニ宗教である。信者は教祖や教会を経由して濾過された肉声に耳を傾ける。少ない情報を体系化し、人間の五感に働きかける声、ミニ宗教が帯びるのはいわば「身体の声」である。

現代では、宗教は過剰な情報を処理する人知のひとつなのかもしれない。地平の拡大は、逆に密室性を強めるものである。データベース社会における膨大な情報選択からの逃走する人が、身近で身体的な情報の処理に安らぎを求めている。宗教はかつてほどイデオロギー的ではなく、出入り自由な、情報過多からの避難場所といった様相を帯びつつある。

特徴的なのは博物学である。今日の博物学の流行は、ポストモダニズムやポストサイエンティズムと表裏の関係にある。情報の編集方法の実用性や社会性を問わず、逆に、合理性・科学性・信憑性といった客観的な基準から思い切り離れることにより、価値の浮遊感の楽しさを私たちに感じさせてくれる。今日の博物学は、文化の文化たる無駄と過剰物の喜びを体感できる人のメディアであり、そして「フェティシュの声」を帯びている。

現在のところ、科学技術の進歩は、データベース的な無声メディアを増加する方向にあるといえるだろう。価値のある情報も価値のない情報も無編集のまま、等価にそして過剰に与える、巨大な情報空間が社会のあちこちに誕生している。

「身体の声」=「身体を通じた情報の選択と編集」や、「フェティシュの声」=「文化の快楽に満ちた情報の選択と編集」は、限りある肉体と頭脳の、限りない情報量の増大への対抗策である、という見方もできるだろう。


「パソコン通信」「マルチメディア」「ハイビジョン」「衛星放送」

メディアのイノベーションを真のメディアに至らしめるのはおそらく、そのメディアが、はたして人と社会に馴染む声を帯びるか?という点にある。

まだ離陸が終わっていない新たなメディアが持ち得る「声」について、空想をしてみたい。

パソコン通信の声は、昔の連歌や連句を思い起こさせる。語り手と聴き手が入れ代わり、連番で相互に発生するスタイルである。入れ代わりのルールがないようであり、あるようで移ろいやすい。私見では、この種の平等なスタイルがパソコン通信にはいちばん座り心地がよいようである。パソコン通信は現在、さまざまなスタイルを試行錯誤している。例えば「匿名の声」による噂とアングラのネットワーク。しかし、この危険に満ちた面白さは、やがて深い沈黙に変わりやすいようである。また「権威ある声」、つまり語り手の権威や正当性が問われる声も、どうやらパソコン通信にはなじまないようである。

では、マルチメディアはどのような声を持ち得るだろうか?

マルチメディアは今生まれたばかりのメディアであり、このメディアの持ち得る声の可能性については様々な感じ方が可能であろう。五感に働きかけるという点から、宗教的な「身体の声」が適するのかもしれない。また教育的な「友人の声」、饒舌な編集の快楽を追及する「フェティシュの声」や「衒学とマニエリスム iii の声」をひそかに聞き取っている人もいるようである。

ハイビジョンには小説や映画と同様な「物語の声」が感じられる。神話時代からドラクエに至るまで私たちになじみ深い、「はじまり、はじまり」の声で始まり、「おわり」の声で終わる、正統的なストーリーテリングの声である。ディテールの描写や、丹念な映像的記憶力、厳密な構成力を語り手に要求し、一方で聴き手に細かな観察力を求める、きちんとしたメディアになるのではないだろうか。テレビの「覗き穴」とは根本的に異なりそうである。

衛星放送はもしかしたら「民族の声」を帯びることになるのかもしれない。歴史的にネーションとステーツの区別を迫られなかった日本人には、私自身を含めこの声を聞き分けることは難しいようである。しかし、東欧諸国の改革の遠因に、衛星放送のスピルバーグとビデオダビングがあった事実は象徴的である。

単一言語(たとえば英語)の汎ヨーロッパ放送は虚構に終わりつつあり、メディアムガール iv は、多声(多言語)たらざるを得ないようである。国境ではなく、チャンネルが国を隔て、自国語の衛星放送を聞く人を国民と定義する時代の到来が予想される。人的な流動性と多様性が高まるにつれ、逆に民族のアイデンティティは何らかの拠り所を求めざるを得ないように見えるが、目下のところ、その力強い候補が衛星放送である。


「東京発」「世代別」「無階層」

メディアの声は語り手のみが作り出すものだろうか?おそらくはそうではない。声は語り手と聴き手の共同作業によってつくられ、やがてメディアの属する共同体固有の物語を語るための共有財産となっていく。声は、言葉や映像の持つ文化的背景の共有をもたらすことで、共同体を凝集する。

社会をくくり、分けるものを、私たちは優れてメディア的と感じる。よく語られるように、『Hanako』が出版されてはじめて「Hanako族」が生まれ、人は自分を「Hanako族」であると発見したのである。

どのようなメディアが隆盛するのかという質問は、おそらく、どのような共同体と情報空間に属したいのか?という私たち自身の選択にある。

現在の日本社会の情報空間を概観してみよう。情報量からいって、圧倒的に新聞(とNHK)の分厚い情報空間が社会を覆っている。但し、若い世代を中心に数年後との世代別に、雑誌とテレビ番組が強度の情報空間を作り出している。若い世代の情報空間は、いわば「東京発のハイパーコンテクスト」である。何年かかっても父親の常套句を理解できない若者が、『POPEYE』に載っている同世代の若者の、ちょっとした身ぶりや流行の意味を、瞬時に通有する。

欧米に比べ、民族や所得・出身などの階層や、地域による情報空間の文化が少なく、全体的には透明感溢れ一体のダイナミズムを持った巨大な情報空間が存在している。明治維新後、西欧諸国へのキャッチアップを目指してかたちづくられ、昭和15年(統制令)以降急速に加速された日本社会の情報空間の特性は、高度成長型の技術革新社会に著しく適応していたのではないだろうか。「東京発」は全国統一の流行と、「世代別」は陳腐化の速さと、「無階層」は大衆消費財と見事に対応する。


多彩な情報空間を求めて

21世紀に向かい、モノからソフトへという生産様式の移行は、日本社会に情報空間の変容を要請している。私たちの生活を豊かにする現代的なソフトの生産、例えば建築デザイン、広告、音楽、雑誌、番組、ゲームなどをみると、ソフトの品質を表現する、独創的な制作者イメージの創出(たとえば、ルーカス、ユーミン、ドラクエ、ディズニー)と、数人から数百人のオーダーの、コンテクストの高い集団による共同作業の組み合わせによって、良質なソフトが生み出されている。そしてソフトの質と量をもたらしているのは、コンテクストの多様性と継承性である。

圧倒的なソフト輸出国であるアメリカの統一体験(オールアメリカンライフ)の喪失と、圧倒的なハード輸出国である日本の多様性の不在は、相対の強みと弱みである。いずれにせよ新たな文化が生み出され育まれるためには、情報の分断と隔絶がもたらす多様性と、広範な交配と競争がもたらすダイナミズムの両者が必要であろう。

80年代後半に私たちが体験した暴力的な記号の消費は、透明で単一な情報空間で起こった、急激な豊熟化によってもたらされた。90年代には、分衆や小衆で予感された、より多彩な情報空間の構築が、より具体的に模索されるだろう。多様な共同体の土壌が、新たにつくりだされるだろうか。それとも、私たちの社会が持っていた、共同体を維持するノウハウのいずれかが、再び復活するのだろうか。

山崎正和氏の『柔らかな個人主義の時代』が予見した、小グループによる消費中心の生活社会の到来は、素晴らしいメディア論であった。私たちはテレビ俳優のように、ヨットクラブや、隣人とのガーデンパーティを、そして職場を「演技」する。近年の、生産と消費が合致した田園生活や、19世紀のイギリス生活様式への注目にも、合い通じる一面がある。

あるいは、公文俊平氏が主張するように、趣味や嗜好やオピニオンのグローバルなネットワーキングが、新たな情報空間として、拡大し、そこで人々は尊敬や影響力を獲得するゲームを繰り広げていくのだろうか?

村上春樹氏の小説が、アメリカではやり、日本でJ・マキナニーら現代アメリカの小説家が売れている事実は興味深い。西ドイツ車が好きなのは、アメリカのヤングビジネスマンも同じである。戦後生まれの中産階級の価値観は、経済と共に世界化しているように見えるが、私たちは、同じ国の異なった価値観の人よりも、異国の同じ価値観の人と連帯する、初めての世代になりそうである。

「ドグラマグラ」を生んだ、かつて筑豊炭田の濃密なローカリティは、今日の私たちを圧倒する。明治・大正時代に日本が保持していた、そうした地方文化の豊かな土壌が、再びアイデンティティを獲得し、そして地方は独自の地方文学や地方演劇を生み出すことができるだろうか?

W・ドネリー氏は、『コンフェッティ・ジェネレーション』のなかで、細分化されすぎた情報社会における、情報共有単位としての家族の復権を予測している。ファミリーゲームやテーマパークの隆盛は、その兆しであろうか。映画『家族ゲーム』の有名なシーンのように、テレビはハイビジョン技術によって、食卓の正面、そして家庭生活の守護神の座を再び取り戻すのかもしれない。

消費と生産の共同の場としての企業は、その自己革新能力ゆえに、相変わらず大きな可能性を秘めているようにみえる。大企業は、巨大かつ透明すぎる情報空間のデメリットを認識し、会社全体のアイデンティティと会社の外壁を弱めつつある。そして、会社外とのネットワークを持った小グループによる、多用な文化とソフトづくりを模索し始めている。21世紀にはより多くの企業が、メディアとコミュニケーションビジネスに関わっているだろうが、それはとりもなおさず企業自身がメディア化していくことではないだろうか?また、そこで要求される経営能力とは、編集能力に近いものとなるのではないだろうか?

いずれにせよ、新たなメディアの隆盛は、私たちが選択する生活・消費の社会単位や共同体の鏡像にならざるを得ない。


メディアのアルス

メディアは、「処理能力は毎秒50ビットで、5種類のインターフェース(五感)を持ち、数万年に進化した数千種類のOS(言語)と、数十年の学習期間が必要な、50億個のコンピューターをつなぐ」ネットワークである。

声やコンテクストや共同体は、このネットワークのもっとも文化的・継承的な側面であり、ネットワークを歴史に沿って縦でみる見方である。一方でこのネットワークには、技術革新の大波が押し寄せている。技術革新は、常に激しい同時代性を帯びて、ネットワークの歴史を横に分断する。メディアの未来を考える人々に要求されるのは、常に両方向からみる姿勢である。

技術革新からもたらされる社会の進化圧は、長らくより安く、より速く、より大量に、であった。それは近代社会が内在した、限りない効率化への欲望に基づいているように思える。しかし21世紀を念頭におくときに、効率はおそらくメディアの一側面でしかあり得ない。

「テクニック」の語源は、ギリシア語の「tecne(テクネ)」であるが、さらに遡るとラテン語の「ars(アルス=知)」となり、これは「art(アート)」の語源である。
21世紀を迎え、メディアというジャンルにとどまらず、社会の様々な局面で技術革新を真剣に観察している人は、テクニックをアルスとして再統合する必要性を痛感している。それは人類を人類たらしめ、メディアとコミュニケーションの豊饒化をもたらしてきた、深淵の欲望とそのコントロールのしかたについて、思いを馳せることでもあるだろう。


  1. 社会的文脈。単語やセンテンスなどの持つ社会的な背景。アメリカ文化人類学者ホールは、『ハイコンテクスト—ローコンテクスト』で文化を分類した。
  2. 物神性。モノが帯びるシンボリックな意味や記号性。
  3. 16世紀ヨーロッパ芸術の支配的様式。手法・様式主義、神秘主義、洗練性、耽美的、人工的などの特徴が挙げられる。
  4. 現在勢力を伸ばしつつある汎ヨーロッパのメディア企業。

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