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喪主挨拶

2006/03/23
人間というものは

2006年1月18日に母吉田嘉子が永眠し、その葬儀を23日に西片町教会にて行いました。
500人を越す弔問客に訪れていただきました。
以下は喪主挨拶です。
プライベートなことを書くべきかどうか迷いましたが、後世「吉田満という人の奥さん」はどんな人だったのか。
知りたい方もいらっしゃると思い、アップすることにしました。
またここで、ひとつご紹介したいことがあります。
母はプロテスタントでしたが、クリスチャンの死は、むしろ天国に旅立つ祝福ととられ、死は個人的な物語として完結します。
母が仏教徒であれば、喪主の挨拶がこのように個人的・描写的にはならなかったことでしょう。
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本日はお忙しいところ、また雪が残って寒いところをお集まりいただき、まことにありがとうございました。
母は18日16時に永眠いたしました。
享年78歳で、死因は虚血性心不全です。
サドンデスと呼ばれますが、全く苦痛がない瞬間的な安らかな死でした。
この半年ほど腎臓の機能が低下しており、高血圧とあいまって心臓にストレスがかかっていたことが原因と思います。母は若いときより病気のデパートも同然でした。
一時は薬の飲みすぎにより、スティーブン・ジョンソン症候群という珍しい病気で死地をさまよったこともありました。
それを節制と、熱心な医療ケアで克服してきました。
この10年母の薬箱には、一週間に百を超える錠剤が絶えることはありませんでした。

母はその弱き体に比べて有り余るエネルギーと能力がある人間でした。
母は常に電話をしているか、手紙を書くか、人と会っておりました。
今年の寒い冬も、極めて忙しい日々をすごしておりました。
体調を心配する私たち子供に、隠密行動をとるところもありました。
しかし正直なので「ところで東京會舘はどう行くの?」とすぐにばれておりました。

死の前日には叔母に電話をかけておりました。
叔母は「あなたは祝福された人。生きていても死んでも幸せなのだから」と母に語ったそうです。

死の当日。午前中にも数件電話をしていたようです。
ある電話では「満さんに天使のようだといわれたのよ」と、昔話でのろけていたそうです。
そして午後会食にでて帰ってきたところを、心不全の発作に襲われました。
翌日夜電話がつながらないことに、姉が気がつきました。
何度もかける間に留守番電話があふれてテープが終わっており、姉はそのときに母の死を覚悟したようです。
姉が自宅の鍵をあげると、母は正装をしたまま居間に倒れておりました。

若き日の母は子供の目から見ても、女優を思わせるややエキゾチックな美貌。
病弱で、父の大きな庇護のもとにあるという印象をあたえていました。
信仰について申し上げますと、父は第二次世界大戦からの帰還後、熱心なローマン・カソリックの信者になりましたが、母はすでにプロテスタントであり、ローマ公会議以前はその宗教間の通婚は破門を意味しました。
父は大いなる悩みにありましたが、鈴木正文牧師の薫陶を受け、生涯をプロテスタントとしてすごすことを決めまいした。カソリックの破門を受け、西片町教会に通い始めました。
鈴木牧師は『戦争責任告白』をされたことでも有名ですが、父も同じく戦争責任と現代という、文章を書いており、同じ時代意識、問題意識を共有しておりました。

その後西片町教会に分裂が生じましたときに、父は長老として深い悲しみのなかにおりましたが、か弱きものとしての母、本能で信仰を考える母・祖母を思いやり、西片町教会という選択を選んだのではないかと想像します。
一方母は全く迷うところがありませんでした。

家庭としては、日本銀行の原町寮、青山寮、そして青森支店での生活が強く印象に残っております。
事故により隻眼であった父のため、母は昭和40年に運転免許を取得し「いすずべレット」を駆使し、文字どおり青森中を駆け巡りました。
青森では困窮を極めた開拓村に衣服、食料を届けるという活動もしておりました。

父の死後、母は生まれ変わったように強い使命感を持ち、吉田満の死後30年近く、遺族としての社会的使命を果たしてまいりました。母は吉田直哉さん、山本七平夫妻、安野光雅さんら父の親友との交情を引き継ぎ、また出版社、戦艦大和にまつわる海軍の関係者、近代文学館や、大和ミュージアムなど、との関係を維持しました。

母は頭で理解するというよりも体でプロテスタンティズムを体現しているところがありました。
常に正義を求め、ま正直で、果敢で、時には無神経といえるほどに直言をしました。
母の体内には絶対に正しいと思える方向を示すコンパスが備わっておりました。
それは感情からくるものがゆえに、逆に揺らぐことがありませんでした。

父の最期の遺言は「望、いろいろあるだろうが、あの人はともかく善良な人だ。それを持って許してあげなさい。そしてこのベッドの下の黒い箱を止めてくれ」
母は父の最期の言葉を録音しようと、テープレコーダを仕掛けていたのでした・・・

母はもっとも言いにくいこと、もっとも指摘してほしくないことを必ず見つけました。
母は不安や困難を正面から直視し、なおかつそれを努力やエネルギーに変える力がありました。

それがプロテスタントの本質だと思います。
私が去年「会社は誰のものか」と言う本を出したとき。
母に本を渡したのですが、どこかで母に喜ばれたい自分がおりました。
母は渡した瞬間ひっくり返し、著者紹介に「吉田満の子息」とあるのを目ざとく見つけました。
ため息をついて「望さん、あなた結局満さんを利用しているのね」本を渡してから一秒たつ前の応答です・・・

母の勤勉・能力はとどまるとことをしりませんでした。
二年前から始めたコンピュータで350人の名簿を管理して、皆様への年賀状を出すほどに熟達いたしました。
グーグルマニアで私を日々検索し、私のサイトを熟読しておりました。
神のごとく、私よりも私のことを知っておりました。
私のIT好きは要するに、この母の遺伝それだけであったのだ、と感じております。

ライブドアやヒューザー問題についても熱心に質問をし、経済関係にも大変な関心を持っておりました。
貯蓄や投資にも旺盛な関心があり、家計をハンドリングしたことは、母の能力維持に大きく寄与していたように思います。
死の直前まで運転をし、その運転も落ち葉マークをつけながらのスピード運転でした。
去年、77歳で免許更新をしたときに、母は5段階で4の評価だったとのこと。
ちなみに5段階には一人しかおりませんでした。
「あなた、私は若者を含めて全体で二番目ということなの」といっておりました。

母は広い家に一人でくらしておりました。
家に行きますと、私がいた部屋は私がいたときのまま、父の書斎は父のなくなったときのまま、祖母の部屋も同じくです。母は死者に色濃く囲まれておりましたが、それが悲しくなかったようです。
母は身近のものを片付けることをしない。すべてのものは母の人生を構成する図書館の要素でした。
人生の記憶をなにひとつ捨てずに、母はその図書館に生きておりました。

後半の人生では祖母中井静子の面倒を長らく見、最後を看取りました。
祖母は丁寧な母の看病のおかげで94歳まで長生きいたしました。
祖母の死後数年間、母は自由な生活を行うことができるようになり、最後若き日の青春に戻ったように母個人の人生を満喫しておりました。

その個人の人生を後数年楽しめれば、と思う気持ちもありますが、父も祖母も母をまちかねていたと思います。
母の強烈な個性はなにかしら、母の肉体を離れ精神として私たちの回りに残っているような気がします。
「ほら、ちゃんと死んだでしょ」と母が語りかけているように感じます。

本日は大勢の方にお集まりいただきました。
教会や友人、父の知人との交友を生きがいとしていた母は、本当に喜んでいると思います。
まことにありがとうございました。

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Comment

1 - Name: 小林重利 : 2006/03/24 12:57

天に召されたお母様の安らかな眠りをお祈りします。

私は吉田さんのWebサイトを以前から拝見しておりました
一読者でございます。吉田様のお母様へのお気持ちを拝読して、
とても心を打たれました。
全く面識の無い私がこのようなご挨拶をさせて頂くこと、
失礼にあたりましたら、どうぞお許しください。


2 - Name: bold : 2006/03/24 22:00

小林重利さま。コメントありがとうございます。

3 - Name: tom-kuri : 2006/04/05 16:13

望さん、

ご無沙汰しています。
お母さまのご逝去にあたり謹んで哀悼の意を表します。

そうそう、
「故人がクリスチャンの場合には『ご愁傷さま』『お悔やみ』などの言葉は使わない」んでしたね。
わたくしの母の伯母がクリスチャンでしたので、その時の葬儀を思い出しました。


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