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@bold「ブランドの善悪理論実践編」

2001/03/02
ブランドと経営
nozomu.netによる、へーゲル研究家の泰斗フランシス・フクヤマの情報社会研究を応用した、
「現代世界最先端のブランド研究(かつ実践)」(長文)を披露いたしましょう。
これは・・・・・難解です。自分でも読み返す気がしません。
僕は奇矯な人間で、いつもこのような「理論」を漠然と感じながら、動く方向を決めるのです。
行動のさなかで「理論」がかわることも多いです。
ちがうストーリーになってしまうことも多いです。
見えないいろいろな糸に引きずられて動いているのです。
自分でも不安な気分になります。「僕はこんなか細い糸を信じて動くのか」と。
でも幸いなことに、人からよくこういわれます。
「吉田がいうことはまったく理解ができない。
だが彼が何かを理解していることは、なんとなく理解できる。
彼が多くの場合結局正しいことは、多くの人が理解している」


ブランドにおける善と悪

最初に情報社会における「善と悪」について定義をいたしましょう。
1)弱肉強食の社会、掟のない世界においてなにがなんでも「勝つ」努力。
これを悪とよぶことにいたします。
2)その逆に悪を押さえ込み、法秩序により社会を押さえ込み何が何でも平和を続ける。
これを「善」とよぶことにいたします。
この悪と善は両極端に思われますが、実際には非常に近いのです。
つまり絶対的な平和の希求のうらには、もし悪魔がその世界に登場したときにはこれを決死の覚悟で叩く、
という決意が必要だからです。
そういえば日本には昔から名前に「悪」をつける風習がありました。
悪源太、なんていうのがそうですね。
馬力があってよそから来たならず者を撃退してくれる、そう「七人の侍」が、
日本的には「悪」と表現されたのです。
大胆不敵、徹底的、戦略的、ど根性。
「いざ鎌倉」という時のこういう態度を意味します。

この対立概念は、実は悪を気取る「小悪」と善を気取る「小善」のセットなのです。
「小悪」=「小善」の特徴は小心、臆病、無気力、怠惰です。
しかしそういう人たちの心根もエネルギーに満ちています。
今いる場所から一歩も離れたくないから、外の光景を見たくないから、死ぬのが怖いから。
そのための必死の努力をします。でも・・・どちらかいうとマイナスのエネルギーですね。
(「悪と小悪」http:// www.nozomu.net/ cgi-bin/ webnote/ opinions/ 14_index_msg.html を参照のこと)

なぜ情報社会と善悪が関係するのでしょうか。
それはネットワークを通じて、私たちはこれまでよりはるかに幅広い無名な企業や友人と、付き合う可能性がでてきたからです。
今のところ企業は、その所在地や取引銀行(バンクアカウント)において、
一義的に確定することが可能です。
まともなビルにあり、まともな銀行と取引していればまあ・・・・
さほど問題が少ないということが解ります。
(これは先進国の場合だけであって、アジェルバイジャンとかの場合ですと、やや疑問ですが・・・・)
この善悪判断という基本以外に、冒頭に述べた悪=善と小悪=小善との見極めも難しくなってしまうのです。
これまで私たちがある他人を判断するのは、ごく近いところに長いこと一緒にいて(車座、という言葉がありますが)、人となりの判断を行ってきました。
私たち人間は、顔の表情の微妙な変化やボディーランゲージの意味を読み取るよう、太古のむかしから訓練してきたのです。
短い時間だとごまかすことができても、長い時間一緒にいると、その人の本性がみんなにわかるわけです。
「彼はなんでもないときには頼りになるが、いざという時にはさっさと逃げ出し、あとで自分の手柄を主張しそうだ」
その風評がまわりに伝わって、そのまたまわりに伝わって、というようにして、だいたいの人格がその周囲にも伝わるわけです。
ネットワークではそうした人格的な一貫性の確認、ニュアンスの伝達が難しいのです。
ひとつにはプライバシー保護の問題があります。
さらに複数のアカウントやアドレスを個人がバンバン使いこなせば、
(ちなみに私は20以上のアドレスを持っているが)、
ネットで知り合うある人間が、ある面では善である面では悪を使い分けていたとして、
それを知るすべがないのです。
多重人格者にこれほど多くの人が関心を持つのも、
ネットを通じてそれぞれの分身が一貫性を保ちながら
さまざまな人格を使い分けることが可能になってきたからではないでしょうか。 
グローバルにしかもネットを通じてこうした状況がおきているのですから、
従来対面して勘で善悪や小悪=小善、つまり力量の具合を見分ける、太古から人間に備わってきた本能が、
なかなか働きにくくなっているといえるでしょう。
しかしその善悪力量を見抜く力量のミスは、致命的ともいえましょう。
(そういえば、インターネット新興企業でもいろいろと問題がおきましたね)

普通の人間は天使でも悪魔でもありません。
もし、すべての人間がきちんと約束をまもる絶対に安全な天使の社会があったとして、悪魔が一人だけいれば、彼は大変に大きな成功をおさめるでしょう。
逆に全ての人がことあるごとに仲間をだまし裏切る社会もありえません。
なぜなら、悪魔の社会に少数の誠実で協力的な天使がいれば、その人たちは協力できない悪魔のなかでお互いに協力することにより、大きな利益を得ることができるはずだからです。

要するに私たちの住むこの社会は、
さまざまな割合で天使と悪魔の両面をもつ人々からなりたつ、ということです。
あるいは人は相手によって天使にも悪魔にもなりえる、ということです。
私は天使といいはる人は、私は悪魔といいはる人と同じぐらい信用ができないか、あるいは本当の自分がまったくわかっていない、うつけ者です。
このような社会を生き抜くために必要なのは、「天使に褒美を与え悪魔を罰する」知恵です。
そのためには次の2つの能力が必要です。
1)天使と悪魔を区別する特別な認識能力
2)首尾一貫して善悪に対応することを確実にする特別な感情もしくは本能
私はこの善悪の察知能力、対応能力、そしてその両面の中で自分を律する立場を、「善悪幅広く最後は善を選ぶ」と呼んでいます。
小悪=小善はこの首尾一貫した戦略をとることができない、感情の少なさ、計算の短さ、長いものに巻かれろ的な弱さに彩られているのです。
そして情報社会におけるブランドの力量は、 「善悪幅広く最後は善を選ぶ」経験、力、確信や度胸や技術などによっていると思うのです。


「善悪幅広く最後は善を選ぶ」ブランド

個人、企業いずれにせよ、ネットワーク化の混沌の中では、善悪を見極め両面に対応する力量装置、としてのブランドがますます重要になってくることでしょう。

善だけでも悪だけでも、ブランドは成立しにくいのです。
たとえば・・・・一例として、コカコーラを考えてみてください。
私は、コカが体協イメージに偏りすぎるのは危険だと思います。
本来このうえなく体を大事にするスポーツ選手が、ともかく体に悪くても飲みたい!
から美味しさのシズルが生まれるわけです。
例えば高橋尚子が、マラソン優勝後、どうしてもコークが飲みたいとします。
ダイエット中といえども「今回、優勝の後ぐらいいいじゃないの!」と。
そのあとまたその分、練習をきちんとすればいいわけです。
それが「人口甘味料だからカロリーゼロ!」と言いつのりすぎれば、飲んであたりまえになり、「美味しさの実感」が目減りするのです。

善ということをいいつのれば、それは自らが悪から距離をおき、法に守られたか弱い存在であることを告白するのも当然です。
むかし冷戦終了前のことですが、日本には「絶対平和主義者」という訳のわからない人たちがいました。
軍備を持たずにアメリカとの軍事協定を破棄しよう、といいだすのです。
「もし、誰か責めてきたらどうするんですか?」という質問に対して、「降伏すればいいじゃない」と主張するのです。その後、他国の支配下にある屈辱、恐怖、隷属、悲惨に対する想像力がまったくない人たちだったのです・・・・

しかし幸いなことに多くの人々は敏感に、まったく悪がない「無菌の世界」のいかがわしさ、ありえなさに反応するものです。
あるいは。
ジム・キャリーの「トゥルーマンショー」のCMまみれの世界を考えてみてください。

「Good morning! And in case I don't see you, good afternoon, good evening, and good night.」

(覚えてますか?この映画)
この映画セットの中の世界こそが無菌、善の世界であり、トゥルーマンはその屈辱、恐怖、隷属、悲惨から脱するために命をかけ、またその行為は多くの視聴者の心を打ったのです。


ケーススタディとしてのスポナビと2CH

ケーススタディとして、スポナビ(www.sportsnavi.com)と2CH(www.2ch.net)をとりあげましょう。
この2つのサイトは「ブランドにおける善悪理論」の好例だからです。
スポナビ(www.sportsnavi.com)は、「現代版体育の教科書」の匂いがし、悪の醸し出すセクシーさに欠けます。
スポーツというのは本当に美しいものなのでしょうか?
私たちの多くはそれがタテマエであるが、それだけではありえない、ということを知っています。
スポーツ選手は私の知る限り「苦痛に強いオタク」、引きこもる場所が部室、彼らにとって、スポーツは一種の麻薬かギャンブル、という場合が結構あると思います。
スポーツ紙の最近の隆盛は、彼らが芸能面をとり入れ、さまざまなスキャンダルを掲載しはじめたことと関係があります。
そもそも新聞というものは、タテマエとしての美談や正論の類はあっても、本来の魅力はニュースであり、その多くは事故や事件であり、つまりは「他人の不幸」を読むためのものでもあるのです。
(ハッピーなお花見のニュースなどは、本当は誰も読みたくないのです)
(まともな成人式の報道ではなく、成人式に起きた事件こそが、報道のし甲斐があるというものです)

これ以降は2CH(http:// www.2ch.net)についての考察です。
2CHの問題はあまりに「悪」すぎる点にあります。といっても2CHは本当の「悪」ではありません。
嫉妬と自慢とゆがんだ正義感が交じり合った「小悪と小善」です。
おもしろくさえすれあれば許される「おもしろさ共同体」といったところでしょう。
 しかしそれでも企業が広告を入れるのには十分すぎるほど難解な「悪」のイメージがあります。
今全体が「小悪と小善」を志向する日本社会において、その「写し鏡」としての2CHが、逆に政治的なやり玉にあげられるリスクがないとはいえないと思います。

日本社会においてはアカウンタビリティの進展や、情報開示がなかなか進んでおらず、企業社会の病理的な現象が浮かび上がっています。
まさにインターネット投資におけるモラルの逸脱や鵺経済化がその典型です。
本来の資本市場が求める透明性、最低限の情報の対称性を日本の企業社会(というか社会全体が、ですが)は備えてはいないのです。
人々はそうした組織病理をうっすらと知っており、その露出を求めてこうした2CHに集まるわけですが、真剣な暴露がそこにあるわけでもなく、ほとんど大半は無責任な噂話に終始しています・・・・・

ここで重要な与件は2CHの「匿名性」についてです・・・・
2CHは匿名性がシステムの基盤になっており、大半の執筆動機は、「身元を隠せるから書ける」という内容になりがちです。
それが反転して、2CHに書き込むという行為自体がなにやら「怪しげ」で「不安」を呼び込む心理状況を作り出すのです。
大半のまともな、タテマエを背負った社会人の視聴者はいわゆる「ROM(読むだけ)」であり、ばれたときの事を不安に思うため、書き込む度胸はありません。(ひんぱんに出現するIP抜きのいたずらや噂がそれを裏付けます)
いずれにせよ、2CHの例でいいますと、まともな人が書き込みにくい構造になっており、それがサイトの質を落としているのです。
(それでも嫉妬や内面の醜さはスキャンダラスな印象を与え、視聴者の流入量を呼び込む構造にはなっていますが)
もうひとつ2CHの課題は、ネオ麦茶以降(笑)スターがいないことです。
名前を出してもかまわない、というまともな執筆者がいない、というのが大きな課題になっていると思います。
(ひろゆき、切込隊長などははその数少ない例外でしょう)
現状ではやはりまともな企業人、組織人は執筆者になるのがなかなか難しいと思います。
とういのは、彼らは忙しい・・・・本当はほとんどが全然忙しくないのですが、くだらないことでもして、忙しいフリでもしないと、生きていけない、ということがあります。
しかも企業人・組織人は、発言について共同責任をとらなければならない存在ですが、2CHではまともなことをある分量書けば書くほど、身元がばれやすい構造になっています。
あるいは。会社で書き込んでいるとして、 後ろをいやーな上司が通りかかったとしましょう・・・
「おおおおい!その画面はもしかして!でなんでキーボード打ってる? おおおおお前!まさか!あの噂の2CHに書き込んでいるのか!?」
現状ではもうその会社は辞めたほうがましでしょう(大げさすぎましたか)・・・

だから当面、自分の言動に責任を取れる独立した事業者のほうが、名前を知られるというリスクテイクを取りやすいと思います。


2CHにおける善悪のバランスをとるにはどうすればいいか?(実践編)

要するに今の2CHでは質の低い、あるいは社会性に欠ける寄稿者があまりに多すぎるのです。
これでは「悪貨が良貨を駆逐する」ではありませんが、全体での悪=善、と小悪=小善のバランスが、いくらなんでも後者に偏りすぎて悪いわけです。
もう少し確信的な執筆者(悪=善系)の数をあげれば小悪=小善が駆逐されて質がよくなると思うのです。
しかし悪=善系が多すぎるのも考え物です。メディアというのは、小悪=小善があってはじめて、メディアであるという要素が大きいからです。
悪=善系は熱すぎますから、小悪=小善のぬるさの間に挟まってこそ、価値があるようにも思うのです。

僕が考えたアイデアは次の2つです。
まずその1は「オリジナルハンドルの薦め」です。
これは切込隊長に出会って気がついたことなんですが・・・・
私のブランド善悪理論の延長に「自分で自分にニックネームをつけられる奴は偉い」
というのがあります。
みなさんにも、メアドで社員番号か、自分の名前以外に自分にニックネームをつけてみることをお勧めいたします。
(・・・・まこと君がMichaelの類はやめたほうがいいと思いますが)
これにより発言に一貫性を保とう、自らニックネームで対して「名こそ惜しけれ」という感情、
ブランド意識が芽生えるのです。
(今は全員がほぼ一緒ですから、これでは「便所の落書き」とおんなじことなんです。)

私の場合は・・・・boldです。boldは大胆というほどの意味であり、
make bold to do= 「あえて…する」とか、boldface(面の皮が厚い)
という言葉があります。

本当はとってもオープンにできないことを書き込むときには、
それはハンドルを通常に切り替えればいいのです。
このまえネカマを演じていて、書き換えそこねてboldのまま書いてしまい、送信ボタンを押した瞬間に
気がついたのですが・・・・(冷汗)一瞬の過ちが生涯そこに残ってしまうというのは、
なかなか恐ろしいシステムではあります・・・・ しかしこの執筆時の緊張感が大事だと思うのです。

ちなみに・・・私はその後、「名無し君@boldおば(笑)」というニックネームに切り替え、
ようするにboldが洒落でネカマをやっているという雰囲気を強引に醸し出すことにより、
切り抜けました・・・・

その2はHPにおける「オープンネス」の試みです。
私は、「@Bold語録」というのを 掲載しています。この原稿もあらかじめ2CHに
載せたのを後でまとめているのです。
「2CHにあの人書き込んでいるらしいですよーなんちゅう人ですかね。」という2CHイメージに惑わされる噂や、
そこにおける意地悪な作為や中傷を受けて、気持ちがいいわけはありません。
匿名性ならではのリスクが2CHにはあります。
つまり上記のハンドルを悪用して、その人の名前を騙って行われる意地悪な作為や中傷がありえます。
名無し君@Bold[俺は見た!〇〇社〇〇専務による犯罪の告発!]
追随者(例えば私の場合、吉田 臨さん)がいることはブランド上重要な資産なのですが、
Boldもどき(しかも本人と見まごうばかりの)ががんがん、ちょっと違う事書きまくられるのはまずい。
そのときに「書いたものHPに乗っけていますよ」と切り返せるってことは、
「オープンに書いてもかまわないことを2CHにあげている」=「噂市場における匿名システムの逆転」が可能になるのです。
オープンにしているということがある程度知られた場合、 もし書き込みに対する上記の噂や作為にたいして、
「本人が書いたものはちゃんとHPに乗っけていますよ」
と切り返していただくことが可能であるし,
「オープンにしていいまともな意見も2CHでは乗っている」
っていう、 2CHなりの「善良化」が可能になってくると考えたのです。

最後に大メディアと2CHの類似点と相違点を指摘します。
大メディアはひたすら、小善(ごくたまに善)のロジックを持ち出します。
大メディアはまぎれもない社会的強者ですが、 書くときは弱者の文体を装います。そして・・・
「俺達は弱者の見方だ、一緒に強者を叩こう!」というスタンスで書きます。
しかしこれは・・・ニーチェーがいったところの「弱者の正義感」に便乗してひたすら売上を伸ばしたい、という欲得ずくのことなんです。
このゲームは本音(売上)と建前(正義)がまったく違うのです。
一方、2CHが持ち出すのは、小悪(ごくたまに悪)のロジックです。
2CHは「神は死んだ」あとの世界のメディア。
強きを助け、弱きをくじく。弱き魂がより弱き、を求めて彷徨い歩く。
そこには何のルールもありません。まさに「弱肉強食」。
だから2CH見るときはなんとなくどきどき、してしまうわけです。

そして叩く人、叩かない人の基準が違います。
メディア側は「私人と公人」というロジックを持ち出して
実質的に名誉毀損をしてもいい人(権力的な強者)といけない人(無名の弱者)を区分しているのです。
2CHは逆です。「不幸にも意図せず露出をしてしまった社会的弱者(アホとも呼ばれる)」
が痛めつけられがちであり、僕のように意図して公然と露出を行うとするものは、
むしろ安全です。
なぜなら、2CHは「面白ければいい」という最低共同体は形成しているので、
書いている事が面白い限りは基本的に、 ROM(リードオンリーメンバー)を含めた多数派の支持は受けられるし、
一方その「ニュアンス」は社会性の低い書き手も(低いからこそ) 敏感に感じる事ですから。
ブランドの善悪理論の検証を是非してみたい僕は、切込隊長やひろゆき君から学んだ二つの方法、
オリジナルハンドルとオープンネスにより、自分をまず2CHのブランドに仕立て上げて、
その次に2CHのブランド化を試みる実験をしてみようと考えたのです。
2CHのなかに芽生えた新しい自主的ルール、そしてその先にもう少しの改善が進めば・・・
(ひろゆきその他の努力により僕はもうかなり出来ていると感じるのですが)
それは本音も建前も無い、そして自分達で作ったルール。
僕はそれを見てみたい、と思うのです。

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